明治42年頃より漸次薄れ行きしも、負子(オイコ)を背にして何物によらず人力にて荷を運ぶを云ふ。當時、當地にて木材を業とする人にとりて重宝の人を云ふ。力も強く体力あり。之を今考へると如何なる訳か、或いは社會的理由か、今の広島や作州辺より多く入り來たれるものなり。土地の女と婚して土着したものもあり。下北山村あたりもたくさんありしを覚えてゐる。幼時~少年頃最も記憶に残る最後の人は「作州」と云ふ老ひし人なりき、以後はほとんどなくなって了った。