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弓と云ふものは大昔より洋の東西を問はず、土人も發明し、習ひ、使用せしものなり。腕力を弦の力に変へて、矢に總エネルギーを与へて飛ばし、遠隔のものを斃し、傷つける。昔より存する合理的な武具である。
然して、その力、案外の力あり。鎧なくば、到底防ぐ能はず。傷も重く(ヤジリ毒矢の如し)、致死のこと甚だ大なり。今にして土人の音のせぬ有力な武器、狩りの道具となる。鎌倉時代の流鏑馬、段々、安土と言った風にスポーツ的な面も現れ精神的に統一され、弓道として和佐大八郎と星野勘左エ門の京の三十三間堂の通し矢三千何百本と云ふやうな競争も美談も起こり、今に至って文明の中にもある。
昔は支那では養由と云ひ、那須与一、來間孫三郎(足利反抗の時の南朝系の人)など数多くの名手を出した。面白いことにアイヌ、南米の土人、熱帯印度、ブータン、チベット、そして中國(松島の瑞巖寺で我これを見た)、アフリカ土人、ビルマ、タイの土人には殺す目的でなら毒矢(特にクラーレ)を各自秘密で作り、特にアフリカのピグミー族の如き、態度の低い、高さも4尺たらずの土人も弓勢弱いながら猛烈な毒矢を知ってゐる。然るに日本ではその話を聞かず。毒矢を使ったことはないらしい。毒の原料のこともあらうが、少し武士道を誇るべきである。然し、また土人の如きを主として生活とも大関係ある狩猟の点も考へねばならない。目下の矢は日本を於いて弓道をやるものと「宝くじ」の何十万、何百万円のグジビキ用として、やはり行はれてゐるのも興あり。
大人の社会には用なくなったと云へ、我等子供の時分は何かすると本能的で竹や木(アヅサ)で弓を作り、細い竹を直ぐくして葉書の片を に切り、手前の方へ割れ目を入れて二翼式(昔のものは鷹の尾羽、北海道エトロフなどのことに出るのは、否義経記でも北陸辺りかなりの高價で之を得たらしい。「ワシの羽十尻、米二十俵」とあるなど、もちろんこれは俵二斗入り、然し高價であった。きれいにみがいた茶色の矢にウルシや金を貼ったりした物もあった。それに、Yのごとく三翼型の矢羽根であった。我家にも3~5本あった。弓は5~6尺もあって、我のは竹か木か、又は混合か不明。ウルシ塗り、尺あまり離れて藤で巻いてあり。凹んだ側に子供が登ったもの。強弓と小さい半弓でもないものと二張りあり。凹んだ方でも弦をかけると大変だらうに、逆に弦を張るとハッと驚いたものであった)で、的を射たり、木を射ったり、壁を射ったりして遊びしものなり。また、カヤホなどの先に穴のあいたクワンボクの1~2寸位のをとりつけ、矢羽根なしで射ったものである。誤って弟の眼を射て、カンチ目にした人もあった。ネズミは別として、鳥類などはなかなか命中しなかった。今でもちょいちょいやってはゐる。ほんのオモチャ、竹の手頃なるを工作して竹の弾力を利し、小さな石コロを飛ばしたこともあった。また、細い甘竹を切り、これに少し短めの挿入子の竹の子を入れ、紙の噛んだのを(又はスケ玉と云ふ植物の弾力ある種子)突っ込み、先端に在らしめ、更に第二の紙ツブテを強引に押すと軽い爆發音して飛び出すなど、流行したものであった。また、我は向井山に在った伊勢人の石田と云ふ老人より3尺余りの吹矢を作ってもらったこともある。後、自分で小型の針などで危ないものを作った。
矢は前者、7~8寸の竹のヒゴにて一端を尖らし、一端に円錐型に風袋を作る。南米や南方の土人は、今も毒を塗りて使用とのこと。そして、時々は我等の幼時ほどでなくても、現在も作ってみる子供もあらう。次にゴムの侵入と共に細きゴム管をY型の木の叉などに括り、手前は皮などで鉛弾、石ころを保つために作りなして、つまりパチンコ大流行となった。案外小型で便利であったが、また案外ただのオモチャで鳥など容易に捕れなかった。實に、このゴム管が欲しかったことを覚えてゐる。三里村の親類で3尺余りの赤いゴム管、我にくれず、辛かったこと、今も知る。
アメ色と変はり、段々戦争となり、子供の間にも薄れ、今は思ひ出したように針金などを用ひた。むしろ弱いものが出る。そして、空氣銃となる。最近進歩の末、危険となり特殊のものは許可制となり、子供には縁遠くなってしまった。危険のこともあり、また保護鳥も乱射するからと云ふことなり。 |
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注- |
・スケダマ-十津川方言でスケ玉、又はシゲン玉と言う。庭園の端などに植える細い葉の草になる濃青の実(ジャノヒゲ、リュウノヒゲ) |
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