十津川探検 ~瀞洞夜話~
労働者賃金のこと
   我の15~6歳の頃、「ここより新宮までの船賃は5~9円」の送り状を書いたことを覚えてゐる。上り船はこれより倍位なりしか。但し、一隻(人夫2人)である。今日、東房松老人に聞く(45年前か)。山稼ぎして1日35銭の賃、そして米1升21銭なりしと云ふ。米の割にしては安いやうだが、消費の面でも今と異なりて、とびきりだったと云ふ。
 軍手、地下足袋なく、させてもくれず、(それでも)大いに働いたのであらう。
 船の方も結構遊び、泊まり船しつつ財をなした者もかなり木津呂あたりにある。生活の水準が上がった現在は、7~800円も取る。然し、なかなか財を作る者は少ない。服装やカメラ、旅行と出費に嵩む。そして、かうなると職は失はれる方向に不安は進み(機械文明らしきものも山へ侵入し、開發ブーム、人口増加、□□学校、その他)ゆく。かうなると教員とか郵便局員とかが却って生活が良くなる。(保健の面、購買の面、恩給、ボーナスの如く)小を積んで大に至らんとする人の方が、却って安全、安定である。失業には組合あり。能動的でない場合もあり。人により獅子舞の後肢として嫌ふものありとするも、人は相対的、それで良いと思ふ。
 明治18~19年頃、新宮に集まる木材の金額を屏風の新聞に見たることあり。それによると1カ年70万円とあり。今と比して甚だ感深い。
注- ・東房松-セセナゲ水を嫁にかけた弁治の子、現戸主の父。
・泊まり船-新宮から遡るとき、荷物の番人旁船で寝ること。
・とびっきり-他より抜きん出ている意味である。

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