十津川探検 ~瀞洞夜話~
再度、木地屋のことに就きて
   立合川(タチアゴ)の嶮岨は誰も知る。之を谷に沿ひて2~3里も行くと、平地に出る。(之はこの辺りの地形で、掘れて出來た地質は下流ほど嶮しい。上流ほど平坦か、移動し易きところとなる)(ここに)立派な木地屋の墓ありと云ふ。いくつも大小まじへて存在するらしい。木立に苔むして、元禄15年の年号もあるらしい。その頃、既に例の轆轤(ロクロ)と云ふ器(道具)をもち、独特の木地のままの椀など作り、長袖(喬長親王の裔として)と称して奥山に入りつ。
 里人に超然として、山窩とはっきり区別して、相當の間、立合川にも、いや奥の奥、葛川東中あたりの近いところに永年住んでゐたことは確實である。
 何と云っても不便嶮岨なるため、我々若いうちに行って見なかったことは殘念である。人に聞いたとて、その人の考へだけで何としやう。もはや行けない。噬臍の悔と云ふもの。
注- ・喬長親王は惟喬親王の誤り。
・立合川については、第三巻の上葛川の項に木地屋との交流があったことが記述されている。なお、木地屋の集団は、その起源を惟喬親王としており、貴種伝承で誇りをもち、同時に一般民に対しては超然とした態度をとっていたようだ。
・噬臍の悔(ゼイセイノカイ)=ほぞをかむこと。後悔しても及ばないこと。〔左伝荘公6年〕

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