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全然不要、不合理な迷信として片付けることは、時事的に問題なり。いや現在ですらあり。怪力乱神を語らずと孔子云ひ、釈迦も正法に奇跡なしと云ふ。然し、それは相対性で、特定の智識ある人々での話である。証拠は小乗仏教、神道でもあとを引いてゐる。つまり昔は昔、今は今。結局は弱い人間である。五官の知だけでは頼りない。眼にも見えぬ神とか神秘とか、妖怪めいたもの、シャーマニズムの如く現象の世界の精霊崇拝が必要になったのであらう。マイナスの面もあるが、半面とどまりなき人の悪い欲を押さへてゐる。ゐたとも云へる。例へば山で山の神の木を神聖なものとして殘した如き、動物・昆虫より針供養もその一端に触れると思ふ。具象化し、形式化したと云ひながら、蚕の蛹の祭りなどである。 |
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