十津川探検 ~瀞洞夜話~
燈火の移り変はり
   昔は、燈台と云ひ、鉄の台を中空に支へ、予め松を割って置き、漸次投入して灯としたり。石油入り來たるも、明治20年まではカンテラと芯となるものを、ブリキ作りのツボに入れ、火を点じて生の火を得るなど混合したり。
 ランプ入り來たりし時(つまりその後)珍しく、我は三里村にて、弁當持ちにて見物に行きし話聞く。
 行灯(アンドン)、つまり細き木を組みて、高さ2~3尺に作り上部は紙を周りに貼り、油を入れし皿を紙洞の中央に置き、燈芯(植物の芯を取り出したる)を2~3条油の皿に端三分ばかり出して火を点ずるものなり。時々、芯を出す要あり。之は、我幼児まで使はれしもので、よく知ってゐる。江州商人の手本、勤倹力行のこと、修身書内容にありしも燈芯のことなり。
 ランプを脱し電灯にてんやわんやなりし昭和24年頃までは、松明と提灯、和蝋を用ひしなるべし。
 明治28、9年頃、パラピンロウのものの蝋燭が入り、少し明るく、芯も切る必要なくなれり。定紋入り弓張提灯、ブラブラ提灯、畳み提灯とて薄く畳み、蝋燭を入れたる筒と連なりて、夜道を案配して出來たるものあり。之は徳川時代よりありしものなり。
 次ぎに誤魔化しに似たるものと云ふか、オモチャ的な提灯入り來たり、一進一退現今のものに至る。この間、電池に変はり、提灯に替はりて、懐中電灯が家庭、工事、夜の旅、漁用として使用されるようになったけれども、提灯は戦中も今も重宝されて使はれている。夜の会合にも提灯は便利なものである。
 極めて少なかりしも故福井大尉は、昭和11年頃よりマントルによるガソリン燈、次いで小生大戦始まるや、ガソリンより石油のマントルによる燈火を用ひたり。
 我小学校の4~5年頃、新宮・那智・勝浦あたり旅行す。老先生の説明にて初めて電灯を見る。効率の悪い熱いばかりの電灯でも随分珍しかりき。大エジソンの澄明になる炭素線なりし。よくもこの失ふエネルギーを無視して採算も得たりやと思ふ。
 旧態の松明は特殊な意を持つものであらう。(松明は人の行動を夜に律する)ランプまで、アセチレンまでは竹の筒に石油を入れ松明の代はりとせり。また、我の製材工場にてもブリキにて作る二本の灯先を具へしものを、夜使用せるを覚えてゐる。

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