十津川探検 ~瀞洞夜話~
幻燈をはじめて見たこと
   我等子供の頃、学校も随分今と違ふ。三大字で先生3人、本校の君島先生のみ歌もオルガンそして大体理科の実験もやった。分校の我等の組も上葛川の組も前段階の先生で、校長不在の時など音痴で不器用な先生(老人)は、鍵盤上に朱を用ひて「君が代」などの音譜を書き、歌ひ出せばチンプンカンプン、そして終わりのみ歌らしくしたものであった。通知簿の配布は教育勅語に始まり、まるで軍人の勅諭の如く、起立して読まされしもの。式日には御眞影を拝し、(それから)読み方、書き方、綴り方、算術、理科、5~6年にて地理、歴史、図画であった。初年は教材の赤、青、黄、緑の玉を用ひ、又は桃などの札を針金にかけて教はりしものなり。而し、老人のこと故住室に冬の如きは籠もりて、(授業が)終わる頃出て來りしものなり。然し、確かに家庭的で、よく病氣などの時は保護してくれ、家庭へもよく來てくれしものであった。薪も大渡の我が製材所へ先生も生徒も取りにいったものである。また、アメノウオ釣りの先生を見たり。耳漏(ミミダレ)の子は、よくこの魚の脂を耳に入れてもらってゐた。垣野先生は、釣りの帰りに蝮(マムシ)に咬まれてから良くなく、高血圧の為、卒中を起こして死去された。放課後、よく連れられて家へ帰ったことを覚えてゐる。
 ある時のこと、神下の父兄を交へて我々も幻燈を見に大杉へ夜をかけて行ったことがある。君島先生はオルガンを弾き、スライドとは全く異にするガラス板(約3寸)に色で画いたものをランプの光で寫し、喜んだものなり。その内容は何であるか、ほぼ分かると云ふ次第であった。

瀞洞夜話へ