その頃、伊丹(イタミ)とて、良質の杉の部分を酒樽とし、それを丸又は樽丸と云ひ、四斗樽位の太さに竹の輪をはめ、「赤」「内赤」「蓋」などを作り、移出したり。田戸に歌之助と云ふ小人あり。但し、クレチニスムスに非で均整ありしと云ふが、僅かの四斗樽の高さを作るにも、常に台を置いて上り、槌で叩いてゐたと云ふ。今は酒樽も移出なく、ガラス瓶となりゆき、昔の面影は見ること能はず。生々流転の様はここにも見らるるなり。その人、妻ありと聞きしも今何処へ失せしや。暗黒の過去へと消えてしまった。
(34年2月6日)