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吉田奈良丸より出で、47士を賣りものにて、余、小学1、2年頃大流行、菓子にも扇子にも□□にて、浪花節の忠臣蔵のことなきはなし。本を求め、小冊子ながら男のみか、山口のよしゑ達も唸るより歌っていた。カルタその通り。後、徐々に節も詞も漸く変はりゆき、現在の如く一般的な師匠の芸となる。かなり古くからあり、亡父の如き不況から抜けるため、養蚕を奨励せしも、人の集まり悪しきに思ひ付き、一人の曲師、木之本の山門久夫と云ふ田舎廻りを頼み、人を集めて本旨を広げしこともあり。
それより、ちょいちょい入り來たり。指示を役場などに得て、愚にもつかぬことをしゃべる者など戦時中はちょいちょい見たり。中に炭焼き小屋やクラブなど哀れみを乞ふて落人を思はせるあり。この後者は敗戦の直前直後に多かった。内容は極めて非学理的。 |
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注- |
・中森忠吉さんは、十津川村へ來たある浪花節語りを大変気に入って助役時代に自分がついて十津川中廻って、村人に聞かせた。その頃浪花節は流行だった。そして、それが山門久夫である。 |
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・山口のよしゑ-田戸の西島留吉家、よしゑ嫗は現存、この人の米搗歌などをテープに吹き込んである。 |
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