十津川探検 ~瀞洞夜話~
川原乞食のこと
   中部地方の亜流をゆく山窩のことである。余の8歳位の頃、よく島津の森の蔭、川近きあたりにテント(せぶり)3~5位あるを見たり。約40年前なり。これに親分あり。夏はウナギ採りをして賣り、冬には「熊シダ」にて巧みに籠をつくり(主として茶碗、皿入れの類)賣りに來し。言葉少なく、各方言交じるかに聞く。
 小生見し最終の川原乞食は、下北山村西脇方にて療養中、小口方面よりウナギ持て來たりしを覚ゆ。
 然し中には野盗となり、民家を襲ふものもありて、一般民を恐ろしがらせたもの。その一つの例として、我1歳母と里に帰りしある冬の夜、我が家へ5名の賊入り來たりたり。大工、屋根師、ハツリ人夫、番頭、父など10人以上もゐたるに、まるで知らなかったと云ふ。あとから銃で追へば易々たるに、錠のところをよく切れる刃にて菱形に切りて外し、父の寝室に入り、25□あまりの金庫を狙ふ。父、それまでには常に金庫の下に頭を伏せたりしも、今夜は多人数の為、安心して逆に足を向けたり。金庫の上にのせたる煙草箱を布団の上ながら父の足許に下ろし、4寸棒を外部より持ち込み、金庫を荷造りして出でゆけり。番頭、朝發見し、大騒ぎとなる。その後、菅家の庫をあけ、酒樽に穴を穿ち、味噌をなめて肴とし酒を飲み、白米の4斗俵の中をヒ首にて切り裂き、2斗あまりを袋にとりて兵糧とし、一時はキリリ道(切入道=玉置川へ行く山径をキリリ道と呼んでいる)を越えんとせしものの如し。後大儀なるを察し戻り來たり(袋の破れより米の落ちたるにて判明)、川舟を盗み、瀞を下り瀞瀬に上がり、屋根師の使ふ小刀にて石を使ひ難なく金庫を開け、現金600円(當時は大金なり)、又母方より預けられし5両、10両、4分金などすべて奪取し、銀のものは不要な書類を置きしを之にて押さへありしと云ふ。
 當時の警察のこと、なかなか埒あかず、1、2ケ月して木之本の鬼ケ城あたり川原乞食巣くふあり。その使ふ銭は當時としては大金の10円札などあるため、木之本署と十津川署と連絡、一網打尽を策せしに事洩れ、捕ふる能はず。その後、串本近くのフクロ港の群れ怪しとの情報あり。内偵を進め、新宮署より藤田刑事、ピストル携帯にて他の刑事と之を襲へり。先方は大勢、甚だしく抵抗せしにつき拳銃を發射、約一丁ばかり離れて遺の前に死にたるは首領、外2名を捕らへ一先づ帰る。3年後奈良にて捕らへられし者、自白により金200円戻り來りしよし。(32、5、3)
注- ・下北山村西脇方とあるのは、下北山村田戸で西村医者に治療を受けていた時のことである。西垣方の誤りか。
・瀞瀬-瀞峡の下流入り口の瀬になったところ

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