十津川探検 ~瀞洞夜話~
當田戸の昔話
   余、案ずるに往時は(少なくとも300年前)、上葛川が第一に栄え、次に東中(古來より中村と云ふ)、次いで下葛川と下流へ開け、今は田戸は咽喉部であるが、その頃即ち1000年前は上葛川辺は役の行者、葛婆の伝説の如し。又、當時の交通状況よりして(道なく、舟なく、車なく、機械なく、人々はただたとへ登り遺したるとも、最短距離の細道を分けて通行したらしいこと、特に重要なるは藩政であり、川あれど米塩新宮より容易に來たらず。)孤立的存在で生活、文字通り苦しむ土地であった。然し、世の中は移って行き、明治に入ると世も変わり舟運も發達し、他縣とも互ひに経済的な交流が始まった。どちらもそうでなくば生きてゆかれぬことになった。
 田戸あたりは、専ら炭焼き(余の祖父陣平は向学の心あり、リンコルンの如く弟を連れ山仕事の傍ら材木の切片にローマ字を消し炭にて練習しありしと云ふ。33歳で十津川郷出張所〔上市〕にて死す。彼の弟達も勉強家、特に宗三郎は殘せるものにも明らかなり。)を主として、奥の人々は特上の板類、椎茸など、なるべく軽量(旧道、即ち葛川よりは下葛川木戸端の上部に出でて下り、杉原へ廻り、大杉、東野を経て下方の今瀧へ出た。今瀧は店、問屋、筏の休場として栄えたりと云ふ。余の幼時には既に変はりて、車道は平石によりて當田戸まで發達、同分家の菅家また玉置より引っ越し來たり、店も銀行も兼ぬるに至り、自然今瀧は衰ふるに至れり)にして、値の大なるものを産出せし由なり。余の父菅家にて奉公せしものなるが、男女の群れ、庭前に入り來たり、「俺に二合、俺に一合搗いてくれ。」と頼まれ、玄米を搗き粥を炊いたりと云ふ。
 和船は人事の繁多なるにおいて愈々便となりて増し、新宮町との取引年々増加從って木津呂辺りの人々、所謂ダンペイ船の大型を作りて上り下りを扱ひ、玉置口、小川口、湯の口、竹筒など(何々舟と云ふ)も増え、一つ立派な天職をなすに至れり。和船のヤミレはここ4、5年前なり。(今はジーゼルエンジン付きの船)
 増加すれば自ら別なるも、初めは昔も今も変はりなし。社會的な労使間題が起こった。明治初年の頃か、木津呂の船人らスト、田戸のもの積まぬと云ふ。色々問題埒あかず。その時のことである。余の曾祖父与平治なるもの率先して云ふ。もう頼まぬ、自分等でやらうと東直晴君、父及びその弟その他2隻分あまりの船と人とを用意し自力にて始めたり。木津呂など如何に怒ると云ふも何かせん。結局靡いてきたのである。
 當曾祖父は、両親に分かれ14歳の頃、麦畑を独り打ちしに畑一反打ち終わり見れば、最初の分、麦既に生えて青かりしと云ふ。
 次に曾祖父は考へたり。木津呂へ良き人道なし。(玉置川へもまるで今とは違ふ悪道にて)痛く之を憂へ、遂に主となりて浦地前より木津呂まで人道を貫通せしむ。
 考へて見るに昔の人々は、實に社會心を有するものもゐたと云ふこと、挙げれば限りなし。あの當時實に感ずべきことである。如何に世の中は変はるとも原理原則は変はらない。
 又、當店の場より上地までも良い道がなかったのであった。(なお、昔はこんな小さな田戸も上田戸、下田戸に分かれ、附属の寺も違ってゐた)菅家の初代玉置高久らは、これに着目して自弁にていま殘れる石畳の道を作りし、と傳へられる。
注- ・「大正12年頃の瀞を偲ぶ」を参照のこと
・木戸-下葛川部落の上手
・今瀧-東野すぐ下、川べりのハマ

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