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所謂、山窩族について一考を試みん。
當地にては(余の幼時7,8歳頃迄)衰亡の時期で、大なる組織をもたなくなり、少数で川原乞食と云はれつつ、特殊の扱ひを受けて、主として川原のあちこちを移動して生活しありたり。テントのマズキを張り、小屋掛けなどして、一家又は数家族が住してありき。
業は、主として夏はウナギ捕りて賣り、冬はクマシダにて大は径2尺位の民芸的な美しき籠を作り、又箒作りて賣る。
最も悪性の者は、冬盗賊をし動くものあり。余家も彼ら5名以上侵入して、當時500円あまりと古金銀を奪はれしことあり。5人の内1入射殺され、4人は捕らへられ、他の2人は無事逃げ終へしと云ふ。
ウナギのみならず、アユその他の川魚をも賣りに來れり。その他、竹細工もやり、箒作りなどなかなか利口である。クマシダは細く美しくも中段に枝あり、作り難いものなり。5本,6本と揃へて見事曲線美を現はした籠作りたり。
出産の時は川原を掘り、水準に至れば水出づるにより壺形に掘りなして、合羽を敷き、石を火にて焼き之を投入する時、比熱の関係上水は意外に温まるなり。之を用ひて用を足せしなりと云ふ。
余、17歳の頃、北山村の西村先生方にて養生中、先生その女(山窩)の難産なるを認め、親しく見舞い、之を産ませ、且つ衣料、食物など与へしに、涙して謝せりと云ふ。それよりウナギ、アユなど礼物として心から持参せりと云ふ。余今でも、その女の声、耳にあり。
當地にては小川口の対岸の島津の川原蔭にいくつかのセブリを見たり。又、當田戸にては、俗に青右と云ふ川原の一部にセブリ2、3あるを余見たることあり。現今はかかる漂泊族は全然見られなくなった。
上記は、主として大なる川に沿ひて生活するものを云ひしも、殊更山に住する山窩は見られない。こは信州地方ならん。つまり狭義の山窩はこの辺にては疾くより見ず。唯変形と見るべきものあり。但し、山窩とは云はずも、生活の程度、風俗よりして確示せる山稼業と見る。近時強く不詳となりいけり。これは主として木炭を作り居り、近時においても、その方法、手段少しも進歩せず(これがおもしろい)、また、紀州侯の庇護もありて、今に至る。されど元より山窩にあらざる者もこの業をなし生活するあり。混合してしまったのである。然し、彼らの中には純然たる山窩の血をひくものもあるべし。現代にては、その調査なかなか大仕事なり。
斯く云ふ吾も純粋なる山窩に非ざるも、田戸全部炭焼き(家の貧富は言わず)したと云ふことなれば、唯々彼らより6、700年の昔より轉業をせるならん。されば吾にもその血あるやも計られず。 |
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注- |
・熊シダ-当地の呼び名はコマシダ→ |
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この軸をとって籠など作る |
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・川原乞食の出産については別頁にも詳しい |
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・西村医者-下北山村上桑原田戸の医師、一時は大変流行って、田戸からも泊まり込みで沢山診てもらいに行った。東直晴氏も診てもらいに行ってきた。新宮の医師よりも良いと謂われたが、後熊野市へ移転して失敗したという。 |
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・青石-・磧のテント(現土産物売店)の100m程上流。磧に蓬餅のような青い石がある。 |
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