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東野の下方、川の上流に向かへる場所に橘の木あり。左五郎小門と云ふ人植ゑたりと云ふ。當田戸大森山項上に同人の屋敷跡あり。石垣、茶碗の割れたるが出てくる。人ここをサンゴミ平と云ふ。古老に聞く。建武の昔、護良親王落ち來させ給ひたるも、米と云ふものなし。土民ヤマイモを奉りたり。「何と云ふものぞ」とのたまふ。土民曰く、「トキヨ(時世か)と申すなり」と答へたり。
しばしお留まりありしやあらん。東野は、殿野兵衛関連あるが如し。大杉は同親王より戴きし「玉だすき」を祭り、王渡りは現存の「大渡り」。神山の「王休場」、神山の同親王より戴きし凹面鏡を祭る。それより玉置山に続く。有名な大平記の文に詳し。
竹原八郎も東牟婁郡北山村高原に遺跡あり。十津川村谷瀬にも弓場、馬場、黒木御所及び末裔と称する家から錦の御旗出づ。更に大塔村の竹原家には過去帳、墓地あり(遂にこの地を竹原入道の城地と定められたり)。なかなか判明し艱いのである。第一明治初年廢仏のとき文書焼失も与って因をなすがごとし。
兎も角、米のあるところ、又は地利のよきところを轉々と移らせ給ふにやと考へらる。北山村高原にコウトウの宮と称する小さな祠あり。大塔宮の児を祀るとて年々子供を主として儀礼をとり行ふ神事あり。又、花尻と云ふ対岸三重県領には城を作らんとせしか、大川の水を引かんとする岩石を破壊して作れる水道殘れりと云ふ。なお、同村の祭神の御神体は大塔宮より賜りし金幣なりと云ふ。また一説に曰く、これは花尻の人高原より奪ひとりたるため、或る種の罰を受けることになりしと云ふ。
その下流の大沼村の祭神は大塔宮なり。余18歳の頃、塵捨場から訝しき長方形の煤けたる漆塗りの箱を發見したり。何の事がわからず内容は何もなし。持ち帰りて、折りふし同居せる他國人葛川鉱山に來れる當時80歳の瀧口哲太郎老あり。洗ひ見んものと之を洗ひしに菊の紋ある御綸旨の箱なりき。
大塔宮はしばし大杉にありしとも云ふ。大杉にはあらで昔は王杉と云へり。神鏡3ケ戴き奉祀する。王杉より祭神移轉後、神山笹内家(現朝重)の上方守山に祭置せり。椎、玉樟などの大樹天を摩してあり。先主之を伐る。即ち祟りありて久しく病む。故に法事を修して丁重に之を齋き祭る。病はかくて癒えたり。
後、更に中西の辺りに宮を移すと云ふ。現在のところならん。笹内家にただ一面の古鏡今に存しあり。
「王渡り」を渡り、玉置方面に玉歩を拾はせ給ひしに、當時は水激しく橋もなし。恐れ多くも御衣の裾を高くとられ水流を選び、足を濡らしてぞ渡りけると云ふ。故に「王渡り」とは申すなり。
これより「王休場」に至り御休みされしと云ふ。
〔太平記中に出てくる片岡八郎の後裔は王寺町にあり。歴然たる系図を有せりと云ふ。但し、これは約30年前の話なり。〕 |
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注- |
・文中の「北山村高原」は、「北山村竹原」の誤り。弓場の森、馬場黒木御所は谷瀬、宇宮原にあり、谷瀬にも竹原八郎の後裔と称する竹原家や彼を祀る神社がある。 |
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・文中の「花尻」は、「花知」の誤り。また、大川とは北山川のことである。 |
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・葛川鉱山-下葛川の西方、北入谷の水源あたり。銅を掘っていたがその後、まもなく廃鉱になった。鉱石は葛川へ出していた。 |
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