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余の若かりし頃(20代)、有蔵の笹内正清の父云へるに、西の峯に糠塚と云ふ處あり。これは、木地屋の人々、或る時玄米を多く入れ來り、村人にも搗かせ与へ、馳走せるところなり。その名の所以は、白米にせんため搗きし糠、堆き積もりたる為なりと云ふ。事実、我父等子供時代は米は甚だ貴く、よく不自由をかこてり、これ運輸統制の面よろしからざりし為か。故に更に徳川時代に逆行しては、その施政のよからず、且つ悪役人の横行、小さな西山方面の百姓すら年貢の件で水牢入りさせられしもあると云ふ。
まして山ばかりの、田一枚なかりしにおいては、當時なかなか得難く、藥位の使用、それも三拝九拝して得しこともあるべし。我父等は、仏に掬い取りし飯を兄弟が取り合へり。また、折立平石の80余歳にして没りし老母の□く施し粥を飢饉の時、杓一杯を行へるに、今村に長たる折立の人々は、ドンブリを手に門前市をなしたりと云ふ。
昭和初年頃に新宮に米騒動□□あり。又、近くは太平洋戦争中、以後においてマンジュシャゲの根球を食べしもの、樫の實、芋つる等を喰べしを思へば、さもありなんと思ふ。
ロクロは、殊に格別なる技能器械なり。うまく品物が賣れ、また副業の筥類、蒔絵の漆細工が良く、いかば里人も□し、又、彼らも一片の人情もあるべし。仕事の上にも交流あるべし。故に糠塚の如くなりしは尤もと思ふ。折々の魚,ボタモチ、即席の山の肴、トロロ汁等里の味にて彼らの入手した酒にて大騒ぎして憂世の難を互いに忘れ興じたことと思ふ。大判も埋めてない塚ではあらう。而し、それが山の中に在りて山となるもの乍ら、我々に意味深く「人」を考へるのみ。 |
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注- |
・笹内正清-山稼・木材業-他へ転居 |
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・西山-大沼の対岸南方、三重県南牟婁郡西山村 |
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・平石(ヒライシ)-折立の大山林地主(現玉置春雄氏)、曾祖父の玉置高良が葛川沿いの道を開いた。 |
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