十津川探検 ~瀞洞夜話~
木地屋の事①
   當地、立合川のうんと上流、八丁川原と称するあたり、土地もかなり良しと云ふ。そして注目すべきは、元禄年間の墓石の立派なるものありと云ふ。あの昔、何故不便な地へ入りしや。之長袖と老人より聞く。木地屋の居たる事、眞なり。時折、玄米を得て有蔵辺の人手傳ひ搗きて幾分の礼や馳走に預かりたるごとし。西の峯の中腹に糠塚と云ふ所あり。これ、その名殘にして、自ら孤独の内にも長袖を誇り、ロクロの妙技あり。お椀の如き、その他の円形物を(主として下地を作り)、人口の多い方へ搬出、利を博したるに違ひない。また、アメリカのアライグマでさへ、仔の為に木の玩具を作ると云ふ。原始的な玩具も作りしなるベし。
 山窩のやうに移動するとも悪をなさず、体面を守りし如し。結局、こけし人形と云ふものも、維新後土地の所有は國民又は國家となるにつれ、全國に散逸せる木地屋仲間も大勢には勝てず、旧式のロクロも電化等となり、いよいよ野に下りて農を始める者、職人となる者、都会に入りて器物や漆屋、こけし物などやってゐる内に轉業するあり。又、本來の木地屋でなきも出でたりして、たうたう人の間に溶け込んでしまったものと云ふよし。ここに至るまで、自称南朝の正統など座頭、檢校などのこと介在し、極めて複雑となってゐる。川原で賣るこけしの源は元禄頃の木地屋と関係あることは奇妙ではないか。
 これに関して國学院大学教授瀧川政二郎先生(昭和32年、第6号)発表の「自称天皇はどうして生まれるか」に説明して貰ふ。
 余、古老に聞く。木地屋は長袖なり。あまり人とつきあわず。ひとつに超然として他を侵すことなしと云へり。
 當地では、川原乞食とてテント(セブリ)を一家族にて作り、夏は川魚捕り、冬はクマシダにて民芸的籠、箒の類を賣り、質の悪い集団は盗賊となる。つまり山窩の類とは全く違ひ、直接の有無は別として、その業は之に出でしためか。喬良親王(古く一千年以上)より出でしため、菊の紋を誇りとしたり。独高して業に適したる山から山へ移りしなるべし。
 余、幼時に木地屋のものせる椀の荒削り数十ケ家にありしを思ふ。失ひて殘念に思ふ。右の如く孤高を誇りしは親王の後裔又は一族又は之を開祖といただく木地屋の絶対の信仰であり誇りとせるらし。人と交わらざるも此処にあり。之の故にか、昭和30年の今日まで(終戦より)熊澤天皇より29人の南朝の正続が出でたりと云ふ。最後は安徳天皇、熊澤の又寛道もこの木地屋の轍をふみ、ちゃんと墓も菊の紋を散らしたるものなりと云ふ。
注- ・「浦地」にも直晴氏の少年時代に木地屋の作ったロクロの跡のはっきりある、一皮だけ漆をかけた椀が沢山あったが、今は見当たらぬ。
・立合川-田戸の人は普通タチャンゴと呼んでいる。蛇崩山の奥に発し紀州北山村との墳をなして東野の上ミで本流に入る。
・墓石-元禄十三年の刻文あり。囲いをずっとめぐらして、へりに樒を植えてあり、女人の墓だという。なお、上葛川ではここを奥八丁と称しかつてマッチの軸木が大量に生産され、葛川谷の女達が多数荷持ちに出掛けた。(上葛川 西岡虎蔵談)ここには墓が二十基近くもあるという。(東直晴氏)
・西の峯-立合川の東に平行する屏風のような山稜の主峯。三角点ぁり。(1132,5m・紀州北山領。)
・糠塚-後出の「糠塚のこと」を参照のこと。
・川原-川原とはいうまでもなく田戸の下、プロペラ船発着所の土産店のあるところ。
・熊シダ-コマシダと呼んでいる。軸が細長く分枝する。この軸をとって籠などを作る。
・喬良親王-文徳天皇第一皇子惟喬親王の誤り

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