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・「浦地」にも直晴氏の少年時代に木地屋の作ったロクロの跡のはっきりある、一皮だけ漆をかけた椀が沢山あったが、今は見当たらぬ。 |
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・立合川-田戸の人は普通タチャンゴと呼んでいる。蛇崩山の奥に発し紀州北山村との墳をなして東野の上ミで本流に入る。 |
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・墓石-元禄十三年の刻文あり。囲いをずっとめぐらして、へりに樒を植えてあり、女人の墓だという。なお、上葛川ではここを奥八丁と称しかつてマッチの軸木が大量に生産され、葛川谷の女達が多数荷持ちに出掛けた。(上葛川 西岡虎蔵談)ここには墓が二十基近くもあるという。(東直晴氏) |
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・西の峯-立合川の東に平行する屏風のような山稜の主峯。三角点ぁり。(1132,5m・紀州北山領。) |
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・糠塚-後出の「糠塚のこと」を参照のこと。 |
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・川原-川原とはいうまでもなく田戸の下、プロペラ船発着所の土産店のあるところ。 |
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・熊シダ-コマシダと呼んでいる。軸が細長く分枝する。この軸をとって籠などを作る。 |
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・喬良親王-文徳天皇第一皇子惟喬親王の誤り |