十津川探検 ~瀞洞夜話~
見事、狸にだまされし實話
   余、中学二年の頃の事である。
中田老人(上葛川、中文治)が、元菅尾に宿やその他を営み、約20年を暮らして孫を養ってゐた。貨物の中継所である故、上り下りの荷物を扱ってゐたのである。或る日の事、亡き母が我が店にて何事か為すあり。折りふし杉板を積みに木津呂の船夫達來たり。余は折りふし、納屋の板を頻りに床に積み居たるを茫然と見てゐたり。何と平和な事か。徐々に板の数が減りゆき、数束をあますのみとなりしに、突如大声に騒ぐあり。何事かと問へば、何だか変なものが居るとのことなり。或いは猪の仔ならんと云ふ者様々なり。そこで船夫達、皆集まりて棹その他の器を持つもの、無手の者、之を囲みて板を取り去りゆけば、一匹の狸公であった。哀れな狸は、もはや逃れる手はない。コツンと軽い一撃でコロリと斃れてしまった。案外なことに氣抜けしたやうな船夫達、首筋をつかまへ、「狸を捕ったわよ。」と中田老人に披露せしに、老人曰く、「早速俺が買う。賣ってくれ。皮をとるのだ。」と云った。元より異存なく、船夫は之を渡して、又積みにかかる。じっと之を見てゐると、独り言云ひつつ、煙草の入りありし大きな木箱を庭に据へ、「こりゃー、死んどる。」と言ひつつ、鉋丁を入れんとせるに、刃があまり切れそうにない。頻りに指の腹にて驗してゐたが、死んで身動きせぬ狸をそのまま置き、家の中に刃物を研ぐべく入ってゐった。
 好奇の眼を以て余は之を見てゐた。結局は皮を剥がれてしまふだらうと氣の毒にさへ思ってゐた。
 然るに、あっと云ふ間に異変がおきた。死んだと思った狸はムックリ起き上がるや、箱を矢の如く飛び越え、雲を霞と逃げ去ってしまった。余の知らせる声に老人、中研ぎの刃物を持ってあたふた駆け來りしも後の祭り。「弱った、あの狸の奴、死に眞似してゐくさったんじゃ。括って置けばよかった。」など、盛んに繰り返し、苦笑、殘念がってゐた。やはり狸は、かう云ふ意味で人を化かすと云ふ事がはっきり判った。捕らぬ狸の皮算用と云ふ言葉があるが。

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