十津川探検 ~瀞洞夜話~
川伏の事
   これは、ススキ追ひの頃、行ひし神事なり。高さ一尺二、三寸の巾七、入寸の祠を作り、中には祈念札を入れ、上瀞から下瀞へかけて悪い難所に祭れり。之、仕事の上、又は人の水禍を拂ふ意味なり。
 余(8歳位か)、川にて溺れ、今は是非なしと膝小僧を抱へて観念せり。午後の陽は水を透かして朧な我と川底に対しゐたり。突然、頭を掴まれ引き揚げられ危ふい生命を救けられた。感謝。これは、垣本と云ふ新宮あたりの船夫のよし。板を担いで下りありしに、溺れる余を發見、荷を打ち捨て、小舟に飛び移り、棹を一突きし、漸く間に合ったとの事なり。後年、平谷にて、父この人に會し、懇ろに謝儀を述べ尽くしたりと云ふ。
 余は、この他、立合川製材所のトロッコに傾斜あるも顧みず、押し上げ、腰を下ろせしに、トロッコは快く轉がって行く。速度は段々加はり、ふと氣がつくと工場の端はレールが絶え、眼下は懸崖なり。死、直感する。父出で來りたるも僅か手を支えたるも何條堪へるべき。分刻を爭ふ一瞬の間、巾五尺あまりのオガクズの積めるあり。一髪の時、小児としての余の頭を過ぎしもの、オガクズに落ちると云ふことである。少しの批判の間もない。思ふや否や、矢の如きトロッコより轉がり落ち、何の傷もなく助かりたり。こんな心理は西洋の書にも見る。例へばSkin Reachに見る。
 その他、九死一生を得たるもの、肋膜炎、肺浸潤(中学時代)、そして生兵法なる毒薬の失敗、今回の脊髄炎等なり。今まで、生きてゐたが不思議なり。只、瀞七よ、早く帰れ。
(31、2、23)
注- ・川伏とススキ追いを兼ねてやったこともある。
・膝小僧-十津川では膝小僧のことを、「ヘザカブ」と言う。
・立合川製材所-瀞八郎氏の父忠吉氏が立合川の谷口から20町余り奥で水車を用いて製材をやっていた。5、6年もやっていたか。
・瀞七-瀞八郎氏の次弟、終戦後久しくソビエトに抑留されていた。現在、東京に在住。

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