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掃除、餅、鮨、その他門松、注連縄一切の準備をして元旦を迎へた。墓は勿論、神棚、神社、廟屋、台所の神、門前の注連縄一切を終へて、入浴して元旦を迎へた。その内、注目すべきは船玉を、そして水源地、山林の働き手は道具すら祭ったものである。元旦は、一家揃って豆腐や雑煮で初春を祝ひ、この新年を迎へてそれから神社や祖先の墓に元旦を迎へさせて戴いた事、将來の事を感謝、御祈りしたものである。我家はその後、年賀状來るを見る。500枚近くある。そして親子連れ立ちて新年の拝賀式に上下を問わず学校へ行ったものである。その當時は仮令如何に生活程度の差こそあれ朝日へアキラケクこよなき新年を皆が和氣藹々の内にさながら正月氣分で行ったものだ。落ち着いて今からみると、まるで夢のような平和な元旦であった。陽の光さへまるで現在と変はってゐたのである。父が帰って、余と家内の者は御飯の支度もあまりない。大きな折り箱には、各種出來合いの御馳走がある。今日1日は母達も炊事に心を労する事がない。父は年賀状の返信を端然として書き、我も又少々書いた。1日は近隣、2日あたりから年賀の人々、木津呂その他の職人(約延ベ200人位)手拭いなど持って挨拶に來る。その都度酒肴を出してもてなす。大組が來ると、酒の4斗樽も残り少なに大騒ぎしたことであった。今は只飲み食ひ出來れば上の部である。雰囲氣たるやその當時に及ぶべくもない。本家の主人とは平素は多少喧嘩してゐても、元旦は一線をひき、仲良く年始の祝いをしたものだった。噫々、我の幼時には秋葉神社へ参詣し、鬱蒼とした杉の茂みの中で、ドブロク又は甘酒を戴いたものである。
子供は、田舎の事とて遊ぶ方は知れてゐるが、連れ立って喰を楽しみ、男児は男児の遊び、野鳥をとらへたり話したりして遊び疲れた。呑氣な正月らしい日であった。女児は女児で毬突き歌を唄ひ、それ相當の遊びにふけり、樂しかったのである。作家獅子文六氏の云ふ通り、よい正月であった。もはやあんな時代は來さうにない。都會でもクリスマスと共に傳統を忘れてドンチャン騒ぎ。賠償金も払はない内に、噫々、思ひ半ばに過ぎる。変はれば変はるものである。 |
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注- |
・船玉-明神と称して、家にも船にも特別の祠や神体はなく船のナカフナバリ( )の中央に、榊、椎、注連縄、餅、蜜柑を供えるだけ。 |
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・秋葉神社-昔は早朝に下葛川の東雲神社へ参ったが、分離後はジゲの秋葉さんへ参る人もある。 |
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