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先日、約10日程前の事である。かねてから瀞の文字に付き、非常に関心をもってゐたが、判らなかった。偶然、或る調べ物をする為、蔵の中にて文書を整理中、記録を發見した。實は以前に資料を余が保存したまま忘れてゐたものと見える。これによると、新宮市の漢学者伊藤東涯先生の弟子に當たる宇井豈翁は欝翠園と云ふ塾を新宮に設け、子弟を教育した。或る時、その門弟達と共に熊野川を遡り、瀞に來たり、その風光を賞し一文を草す。この際初めて「即ち此瀞也」の句がある。之を以て始めとする。蓋し天保4年の事である。
瀞の文字、その前後において澱に作りたるものもあり。又、玉井洞と名づけしものあり。いずれにしろ明治19年乃至24年頃迄は、折角の瀞の文字もあまり人に知られず使用されなかったらしい。
それ以前は、八丁どろ又は八丁とろ、或いは、とろ八丁とも僅かに云ったらしい。大体八丁どろが長く使われたやうである。書体に八丁泥、単に泥又は泥八丁などとも記され、最も古いのは平仮名の八丁とろでないかと思はるる。又、土呂とも記されし事もあるらし。
どろの語源は、「とろ」らしい。「あのとろのとこ」など川水の淀めるを表す言葉があったのであるから。そして十津川、北山川上流では「ど」と濁る。とろり、どろりとしたどろのようなと云ふところからきたものであらう。結局、こんな都合あれこれと変遷を経て來たものである。 |
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注- |
・十津川村には現在、長瀞(小井)、大畑土呂(永井)と称する地名がある。登呂遺跡も同様で、瀞も土呂も深い淀みを意味する。 |
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