殆どは帯刀を許されてゐた郷士としての十津川人にも、その生活にはピンからキリまである。仮令、炭焼きをしてゐても、他領で働いてゐる時など、祭日の折りなどは髪を大タブサとして、朱鞘の大小落とし差しと云った具合に装ひ、里に出でゆく。里の人も身分は百姓の分際であり、一、二の帯刀御免者あっても、平素の炭焼き殿に頭が上がらない。威張った者もあったと云ふ。いずれにしても、得意であったに違ひない。文久より下り明治より登る頃か。
(28、5、21)