十津川探検 ~瀞洞夜話~
狐のいなくなった事、その他
   古老より聞いたところによると、往時は相當にゐたものである。余の考へるとき、これは日本狼が見えなくなった時と前後してゐるように思ふ。
 何れにしても、これらは急激に姿を消してしまったと見るべきである。明治20年代頃は、盛んに出没して畑を荒らした夜の匪賊であった。今に殘ってゐる余の本家の芋苗を作る、地上に高く築かれた小さな畑は、その當時の被害を物語り全部落を恐慌に陥らせた唯一の名殘をとどむる遺跡である。
 夕方など山や野の辺りでよく鳴いたと云ふ。その鳴き声を昔の人は次のように解したのである。
     師走は去ってもオラへ(ヒ)はこんこん
 余、昭和2年頃、大字竹筒で毒殺によって獲た狐皮を見たのが恐らく唯一の最後のものであらう。
 而し、狐は稲荷明神の使者とされてゐるのは、反対の理由があるので面白い。然し大乗的に云へば、昆虫などの害ほどでなし、反って彼らに食はしめる時代の方、或る意味でよかったのでないか。今山野で一切の獣・鳥或いは虫類も減少したるあり。全滅ありの時代である。却って暮らし難い氣がし、且つ人々は落ち着き(終戦は別として)を失ってゐる。自然は調和してゐると思ふ。我々も生物である以上、全然無関係に過ぎざるる筈はない。一寸と見ては害獣に違ひあるまい。尚、人を誑かすとか憑くとか、大変神秘視され恐れられてゐたが、その人里近きに棲息したこと、及びその動作を見て、又その面の特殊な陰険らしく見ゆる点よりして、その昔宗教上に取り上げられ、方便として特に誇大喧傳せられたるによるなるベし。迷信の類は一朝一夕に拭ひ難く、原爆轟き、ジェット機飛び、テレビ躍る今日でさへ、當地では大部の者、驚くべきは戦後の若者さへ未だ信じてゐる。但し、形式は大分変化して來、余、幼時の如き、所謂狐憑きと云ふ者のブラブラ歩いたり、騒いだり、化かされると云った誠しやかな話は、狸も同様に少なくなって來たが、稍ヒッソリ信じられてゐる。
 余の大伯父東藤二郎老人(80余歳にして終わる)は、云った。「わしが若いとき、狐奴が庭先迄入って來、盛んに雑穀を盗み喰った。或る日の事、狐を發見して、鉄砲にて撃ったところ片足を撃ち抜いた。殘念な事をした。祟るのではないかと心配してゐると、或る夜の事、草履の鼻緒が全部喰い切られてゐるのを發見した。」老人は、やはり狐は執念深い奴と云ふ。
 余、13歳の頃、北村源吉老人に聞いた話であるが、我所有の向井山に「おつぎ」と云ふ女があったが、ある時、狐に連れてゆかれてしまった。田戸の部落中の人々が集まり、鉦太鼓で周囲の山を一日中、「おつぎのばばを返へせやー」と叫びつつ探しつづけたと云ふ。
注- ・本家-現中森孝雄家。屋号を「植田」と言い、現在の田戸で一番の旧家。瀞八郎氏の父忠吉氏は同家の三男として独立、分家した。
・地上に高く築かれた小さな畑-イモジトと言う。土を盛り上げ、更に巡りに垣までした。
・師走は去って一年経ったが(猪や猿や犬の日はあっても)オラへは來んの義。
・東氏20歳頃に入鹿方面でハサミで狐を捕ったという話を聞いた。 その後、東氏が新築なさった昭和39年に木津呂に不意に狐が何匹も寄って來て西瓜畑を荒らしたので、村の人が一日つぶして野を狩り総出で巻き狩りして一匹を撃ち留めたが、それからまたどこかへ移動したらしく姿を消した。
・東藤二郎-藤治郎が正しい。父忠吉氏の父、福重氏の弟。つまり瀞八郎氏の大叔父にあたる。下葛川へ入婿。屋号「竹之内」。「再び狸の事に就いて」では,、狐の仕業となってゐる。
・向井山-向山(ムカヤマ)が正しい。歌之助の生まれた家である。同家退転の後、忠吉氏が買い取った。

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