十津川探検 ~瀞洞夜話~
大蛇の話とその事實性
   余の子供時代、12,3の頃、片岡八郎墓の下に小屋を設け、日雇い達働きゐたり。その中に鉄砲好きの者ありて、人々の仕事に出でたる後、某を二人して鹿を狩るため、犬を山に入れたり。然るに犬は今日に限り稼がんとせず。何物かを恐るる風なり。止むなく小屋に帰りて一休みする事とせり。
 然るに、暫しして何物かが上より滑り來るやうな音が聞こえ、屋根の上をガサガサと云ふより、メキメキさせて來たやうなるにぞ。何事かと出て見れば、大いなる蛇一匹屋根の上にのたり出で、鎌首をもたげゐたり。之を見て吃驚仰天、二人は逃げ出し、顧みて瞳をこらせば、その大きさ7,8寸の丸太の如く、半ばは山蔭に隠れてあり。銃に弾丸をこめ、これを撃つに何の反響もなし。狩人のたしなみとして持ちたる鍋の足を填めて撃ちしに、流石の大蛇も遂に死にたりと云ふ。余曰く、これは信を置き難い。
 次に、昭和17年の頃、阿田和町の從兄弟、音無より聞きし話であるが、食料不足の折り、芋畑開墾の為、杉原を焼きゐたるに大なる(直径五,六寸)蛇の死体焼け殘りゐたりと云ふ。余、思ふ。これも信を置き難い。
 前記の東秀清君配達の途次、玉置川ユリカケ附近の道をビルマにて戦死せる瀞六の犬と通行中、大きい蛇、山より道に出で來たり、鎌首を上げて逃げんともせず、犬に対して攻撃し來たり。如何にせんと考へ居りたりしが、遂に杖にて撲殺したりと云ふ。都合のよき場所に捨てる為、杖にてその中程を担ひしに地面を引きずりたり。六〆匁秤の分銅程ありたりと云ふ。
 余曰く、これは大体において眞實に近きものなるべしと断ず。
 次に、昭和18年頃、北又にて炭焼きの集団あり。その長を藤岡と云ひ、余の眼にては中学校教育を受けし、この業にては珍しき男なりき。ある日の事、北又より用ありて當田戸まで出向く途中、丁度この瀞山の第一番目の水の出る谷を離れ、少し登りたる岡の辺に來れる時、突如として山の上よりガサガサ音を立てて何物か下り來るにぞ。驚きて見れば、一匹の大蛇道を廻りて傍へのバベの木に巻きつき、首たてて、キッと藤岡を見る。その眼の大きさ、凡そ親指の爪程あり。仰天した彼は、踵を返して坂道を逃げて山へ帰れり。暫くは、心臓のあたり悪しかりしと云ふ。
 中森曰く、この種の話は大方は錯覚や幻覚にして眞實を現はすもの少なし。この最後の場合にて、今以て不審に堪へざるは、何事も只仕事以外は予期せざりし、然も中学校教育を受けた藤岡が何故にこんな事に遭遇したかが疑問なり。まさかかかる嘘言を云ふ理由もなし。あったとしても、あまりに唐突過ぎるなり。又、観察眼も相當具へたる男なり。實に不可解と云ふべし。その後、余、現場(約一日後)に行きて見るに、シダの類細く両方に分かたれ、蛇の大なるもの通りたらん道つきゐたり。されど、これ果たして而りしか。また、大抵は青大将なるも、若しかかる大蛇實存するとせば、第一の条件として果たして食物を満足し得べきや。甚だしき難点に當らざるを得ず。先の食物さへ充分あれば、寿命の長き蛇の顆は、或いは大蛇として歳月を費やして生育するならんも、兎にしろその辺りには見當たること少なし。蝦蟆の類もその数知れたものなり。で、多くは耳にしたるも、この詰は殆ど眉唾物なり。
 但し、一丈位の長き物はある。余の家にゐる所謂ネズミ捕りと云はるる奴も、5尺5、6寸位のものあり。余、20歳の頃、家向かふの瀞山を空氣銃持て通行中、道にありたる古わらじを何心なく道の前に杖にて撥ね飛ばせしに、俄然疾風の如く之を追ひ駆けたるヒバカリもかなり大きく、サイダー瓶位ありしかと思ふ。
(28、5、19)
注- ・北又-花折塚の南から出る北又川と松平の南から出る玉置川の合流点の北なる小部落。田戸の真西約2km。この話の後、5、6年して田舎廻りの易者が、玉置口からこの場所にさしかかり、同様な大蛇が道に横たわっているのを発見して、玉置口に遁げ帰ったという話がある。なお、18年のこの事件のあと、藤岡氏はどうしても田戸へ來ねばならぬ用事があってやって來たが、その時は中学へ行っている子供を連れて來た。余程怖かったに違いない。東氏も三日目位に行って見たが、羊歯叢の中は材木を引き摺ったような跡が残っていた。
・バベ-ウバメガシ-炭や薪によい。節分のとき豆を煎るのに、この木を焚きその菓はバチバチとはじけて大きな音がする。
・ネズミ捕り-アオダイショウ-古くから家に住み付いている大きな蛇は殺してはいかんと言う。
・ヒバカリ-クチナワの中では丈が短くて太い。鱗も粗く、怒れば頭も体もすぐ三角にし、体の三分の二住まで擡げる。クチナワの中でも気のハシカイ(荒い)奴である。有毒とは言わぬが、なかなか逃げず気味が悪い。

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