十津川探検 ~瀞洞夜話~
提灯の火を見て狸なりと鉄砲を用意せし事
   自分が子供8歳位の事、或る冬の夜であった。今の橋(山彦橋)は、勿論なく渡し舟にて渡ってゐた時分のこと、約40年前。自分の店にゐた若者が外に出ると、川向かふに灯が見えると云ふ。出て見ると、提灯の灯が一つ山を下りて來る。すると、又一つ、次いでまた一つ、一つ一つ増えて20ケ程となり川辺へ下りて來る。じっと様子を見てゐると様子がおかしい。一つに渡し場の辺に固まってゐるが、「渡してくれー」と叫ばない。「おかしいぞ、こいつはてっきり狸に違ひない。用意せにゃならぬ。鉄砲持って來る。」と云ふ。父も半ば賛成しそうだが「もう少し待て」と云ふ。しばらくしてから、やっぱり狸でなく人である事が判った。即ち、葛川の方に死人があり、それを受取に來たのである。つまらぬ話であるが、思へば思想はいかに変轉するか。今時馬鹿なと一笑に附されてしまふことであるが、之を以て当時の幼稚さを證するに足る。
(以上全部28・4・6記)
注- ・山彦橋は田戸と三重県の木津呂を結ぶ吊り橋で、「山彦橋」の名称は、中森氏の命名になる。昭和10年8月に竣工した。それまではずっと渡しだった。
・自分の店-父忠吉が旧菅家(現西旅館)の向かいに開いた店、中森氏の家である。

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