十津川探検 〜十津川人物史〜
丸田 連
丸田連墓表 天保3年(1832)9月9日、込之上丸田藤左衛門の次男として生まれる。
 はじめ村治と称したが、後に連[むらじ]と改める。嘉永6年(1853)ペリー浦賀来航により、日本国中騒然となったこの時期、連は十津川郷士のリーダー格として活躍中であった父の影響を受け国事に奔走せんことを志し、剣を高取藩士杉野楢助(後に文武館剣道教師として来郷)に、砲術を大阪の萩野正親に就いて修行する。文久3年(1863)8月の天誅組の変には郷士と共にこれに応じ、天ノ川辻に駆けつけ、高取城の攻撃に加わった。既にして京都における政変により天誅組は賊軍となり、追討を受けることとなったため十津川は天誅組を離脱した。追討令を受けた紀州藩は十津川に入り、9月28日、神納川杉本宅にいた連を捕らえ高野山越えに護送し、和歌山の獄に投じた。暫くして11月、釈放されて帰郷する。やがて上京、禁裏御守衛に従うが、元治元年(1864)病を得て帰郷する。慶応元年(1865)込之上村庄司役となる。その後再び上京、御所及び御文庫の警護に従う。慶喜が大政奉還、維新は成ったが、幕府の旧臣等の中には不穏の動きがあり、万一の場合に備え十津川郷士及び土佐その他の志士は内勅を受け、鷲尾侍従を奉じて高野山に立て籠った。慶応3年(1867)12月のことである。この高野山義挙には十津川郷士650余名が参加したが、連は永井村の庄屋郷士松井源蔵と共に、郷中人数を引き連れ高野山に馳せ参じた。義挙参加中華々しい戦闘はなかったが、京都と紀州の間に錦旗を翻し親藩紀州を牽制し官軍を有利に導いた功績は大なるものがあった。
 明治元年(1868)御親兵として伏見練兵場へ入隊、北越戦争には十津川第一御親兵として出陣、各地に奮戦して帰る。同年12月嚮導官として兵器局に奉職する。明治2年(1869)3月、小隊司令格の会計司御用係助役となる。同年6月、戦功により高22石を賜る。同年11月会計司出納係、同年12月会計局御用係(禄15石)申し付けられるが、明治3年(1870)3月、病のため願い出て帰郷する。その後、郷の諸役に付き、明治14年(1881)10月には十津川郷連合会議員、明治16年(1883)文武館新築係、明治18年(1885)より2年間玉置神社社務係を務めた。連は若年のころより、自らを顧みる事なく国事に奔走し、又は郷のために誠実に尽くし、明治24年(1891)8月10日、生家において病の為59歳の生涯を閉じた。
 

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