十津川探検 〜十津川人物史〜
大谷 繁太
大谷 繁太 明治23年(1890)10月、即ち十津川が大水害に見舞われた翌年、父大谷竹松の長男として出谷殿井松本家に生まれた。
 幼少のころより才智衆に優れ、出谷小学校(現西川第二小学校)卒業後、家業の農業及び森林伐採業に従事し、早朝より日の暮れるまで労をいとわず仕事に励んだ。
 性極めて温厚にして勤勉、実直にして責任感の強い繁太は、やがて地域住民の模範とされ、人々に尊敬される人物となった。
 やがて地域住民の強い信頼感から、大字出谷人民総代・出谷森林組合理事・村会議員等に推され、夫れ夫れの職にあって持ち前の性格の上に職責の重要性を自覚し、謹直に務めを果たした。
 とりわけ出谷小学校の建築・公民館の設置・森林開発公団による林道の開設・森林組合の育成等夫れ夫れに多くの問題を抱えていたが、誠意をもってこれに当り解決に導き、出谷地域の発展開発に尽くした。
 中でも殿井共有林の管理に当り、半世紀に及ぶ50年の長い期間にわたり会計を務め、いささかも誤りを生ずることがなかった。
 又出谷共有林の造林等には、わがことの如く文字通り献身的な努力を惜しまなかった。
 その生涯のほとんどを公のために尽くし、ひたすら出谷の発展向上を願って止まなかったが、昭和42年(1967)5月、生地出谷において惜しまれて世を去った。77歳であった。
 没後、殿井の住民は深くその徳を慕い、生前中の功績をたたえ、永く後の世に伝えんことを願い頌徳碑を建立した。
頌徳碑
●頌徳碑
 碑は昭和45年(1970)4月に建てられ、県道龍神十津川線沿いの大字出谷殿井バス停前にある。
 思うに村内には数多くの碑が建立されているが、頌徳碑は数少なく、しかも一地区住民による建碑は極めて数少ない。この碑が言うまでもなく繁太の人徳による事は勿論であるが、碑を建て事を録し子々孫々に伝えんとした、殿井住民の深い心情をも知るべきではなかろうか。
 

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