十津川探検 〜十津川人物史〜
玉置 淳三
玉置 淳三 明治30年(1897)1月24日、重里玉置虎三郎の三男として生まれる。
 文武館(現十津川高校)3年終了後上京、商家で数年間丁稚奉公を務め、順天中学卒業、早稲田高等学院文科入学、大正15年(1926)3月、早稲田大学英文科を卒業する。[早大在学中校友会誌に、詩を発表したが、中学生であった後の詩人野長瀬正夫はこの詩を読んで、“詩を書くことに憑[ツ]かれた”と自作の年譜に記している。
 野長瀬正夫:小原出身、赤い鳥文学賞等多くの賞に輝いた日本の代表的叙情詩人]
 同年4月、福島県立福島中学英語教師として赴任、昭和2年(1927)文武館中学に転任。昭和16年(1941)4月、村出身者として浦武助館長に次ぐ2人目の館長となるが、わずか1年にして退任。当時文武館の経営について、“将来村立としては経済的に維持困難の為、県営に移管すべし”と言う意見、一方“県営となれば文武館の特色が失われる”等、移管反対の論議があり、淳三も反対意見を持っていた為、移管となる前年辞任したという。
 文武館在任15年、かつて学んだ郷校をこよなく愛し、正に十年一日の如く教壇に立ったが、昭和17年(1942)惜しまれて館を去り、広島県山陽中学(現山陽高校)に転じた。太平洋戦争終戦間際、三菱重工業広島機械製作所へ勤労動員出動中、世紀の悲劇原爆に見舞われ負傷した。
 十津川郷友会昭和28年(1953)12月発行の会報第30号に“原爆8周年に当たって”と題し、被爆の体験を悲痛な思いをこめて語っている。
 即ち「−前略−恐怖戦慄の原爆の第1弾が、昭和20年8月6日午前8時15分、広島市の空に炸裂した。−中略−髪は焼けちぢれ顔は焦げ、着衣は焼け破れ去り、全身血だらけ足は折れて自由が利かず…それでも渾身の生きる本能の力をもって活路を求め逃げまどう人々の姿、修羅のちまた、生地獄の絵巻、凄絶の極み、筆舌の到底よく尽くし得ることではない。−後略−そして世界恒久平和を十津川人の私は祈願して止まない。」と結んでいる。
 昭和35年(1960)3月、病の為退職。昭和40年(1965)8月23日、広島県吉島町において、酒を愛し、詩歌を愛し、平和を愛し、郷土を愛し、痩身に烈々たる気迫を秘め、名利にこだわらず、十津川郷士の末裔として誠実・実直に生きた68歳の生涯を閉じた。
 東京在住の詩人タマキ・ケンジは淳三の次男である。
 

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