十津川探検 〜十津川人物史〜
和田 薫
和田 薫 明治31年(1898)2月8日、小川に生まれる。
 幼少のころ愛知県に移り、大正4年(1915)愛知県立第一中学校卒業後、阪神急行電鉄株式会社に入社する。
 入社後、創業者小林一三の厚い信頼を得、経理・資金の業務を任され、経理部長・局長・常務・専務と昇進を重ね、昭和26年(1951)7代目阪急社長となる。社長就任当時阪急における緊急の課題は、神戸・宝塚・京都の3線を合流して、輸送力の強化、サービスの向上を図るため梅田〜十三間を拡充することにあった。時あたかも昭和32年(1957)が会社創立50周年に当たるため、記念事業の一環として、梅田〜十三間三複線化を計画、1年7カ月20億を投じ完成した。
 これは我が国最初の民営鉄道による3複線化工事であり、これにより阪急は宿願を達成、輝かしい未来への第一歩を印することになり、氏の最も大きな業績となった。
 その他の経歴をあげると枚挙に暇がないが、中でも理事長を務めた関西を代表する名門ゴルフ場「西宮カントリー倶楽部」の建設に携わり、その同ゴルフ場には氏の貢献を記念した「かおる橋」が残されている。
 他に大阪ロータリークラブ・関西電気協会等いくつかの会長、阪急ブレーブス・大阪スケート場等の取締役社長、新日本放送・後楽園スタジアム・日本航空等十指に余る会社の取締役、大阪医科大学・大阪経済大学・関西学院大学・宝塚音楽学校等の役員、関西経済連合会・経団連等の理事、大阪商工会議所・同会議所法規委員会副委員長等を務めた。
 昭和35年(1960)交通功労者として運輸大臣賞、昭和36年(1961)藍綬褒章、昭和42年(1967)建設大臣表彰、翌年(1968)従四位勲三等旭日中授章を賜る。関西財界に重きをなし、京阪神急行電鉄会長として活躍中、昭和43年(1968)2月13日、心筋梗塞のため、誠実で人情に篤く、万事に控えめで番頭役に徹した70歳の生涯を終えた。
 社葬には故人を偲び、会社関係・関西財界の首脳・私鉄・文化関係者等1,000人を越す多数が参列したという。
 

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