十津川探検 〜十津川人物史〜
原田 守典
原田 守典 弘化3年(1846)12月19日、原田守一の長男として中村に生まれる。幼名を丹宮、後守典と改める。
 (中村:現在の西中、村内葛川・西川の2カ所に同じ中村があったため、明治13年(1880)東中・西中とした)
 幕末動乱時、武力倒幕の魁となった天誅組の挙が起こるや、守典年わずか19歳であったが、奮然として檄に応じ、高取城の攻撃に参加した。
 その後、元治元年(1864)郷士と共に京に上り御所警衛に従う。
 明治元年(1868)戊辰の役では鳥羽伏見の戦い、北越の戦いに従軍する。
 明治2年(1869)戦功により伍長に任ぜられ、賞として禄22石(1石:1升の100倍約180リットル)を賜う。
 明治3年(1870)12月、日田県(大分県)の騒擾事件(百姓一揆)の鎮定に赴く。
 明治4年(1871)8月、一等軍曹に任ぜられる。明治7年(1874)江藤新平の起こした佐賀の乱、次いで台湾征伐、西郷隆盛による西南戦争と休む間もなく転戦、数多くの戦功をたて、しばしば賞せられた。
 漸くにして国内の戦乱治まるや、軍籍を退き郷里に帰った。
 帰郷後は、村会議員あるいは、文武館協議員等の職に就き、夫れ夫れに為す所があった。守典が最も力を注いだのは西川街道の道路整備である。
 それまでいわゆる山道であった平谷〜西中間を明治13年(1880)改修、西中〜迫西川間を明治15年(1882)拡張改良をみたが、その陰に守典の力の大いにあったことを知るべきであろう。
 この道はやがて林道となり、現在は和歌山県龍神へ通じる国道425号線となっている。
 守典は資性剛直、果断実行、若くして維新争乱時に際会、しばしば数多くの戦闘に身命を賭して戦い、戦い終われば家郷にありて、村の為に持てる力を発揮した。
 大正5年(1916)6月4日、病の為70歳の生涯を終えた。
 西川の左岸、大字西中原田家の墓地には、守典の後を継いだ三子唯三によって建てられた墓碑が、かつて守典が生前情熱を注いだ西川街道の変容を静かに見守っている。
 

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