十津川探検 〜十津川人物史〜
島 那雄武
島 那雄武 明治37年(1904)4月13日、前木直立の三男として風屋に生まれる。
 始め前木尚武であったが、後、下市町の旅館「山水」の婿養子となり島姓を名乗り、後年、那雄武と称した。大正12年(1923)3月、奈良県師範学校本科第2部卒業、同時に宇智尋常高等小学校に奉職、その後五條男子小・五條実業専修学校・阿太小・大阿太農業補修学校・大阿太青年訓練所指導員・上市小・上市商業青年学校に訓導あるいは教諭として勤務、昭和16年(1941)水分国民学校教頭、昭和18年(1943)下市国民学校教頭となり奈良県公立青年学校教諭を兼務する。昭和19年(1944)3月、高等官七等待遇となる。同年下市町青年団長・下市町女子青年団長となる。
 同年10月、陸軍歩兵少尉として応召、中部23部隊に入り響部隊に配属、外地勤務[蒙疆]に服する。昭和20年(1945)終戦により復員、昭和22年(1947)4月新学制により発足した新制中学、下市中学校の初代校長となる。
 この年、戦後初の県会議員の選挙が行われたが、島は推されて現職の中学校長のまま見事当選を果たした。当時は教職と議員を兼ねることが出来たが、中学校長として当選の栄を勝ち得たことは、島がいかに県下教職員に人望があり、県民に信頼が厚かったかを物語っている。
 昭和24年(1949)選挙法の改正により、教職との兼務が出来なくなった為、中学校長を退職する。昭和26年(1951)県会議員再選。
 昭和31年(1956)議員退職するが、在任中、教育副委員長・失業対策副委員長・文教委員長・総務副委員長・経済委員長・総合開発副委員長等歴任、県政発展に大いに力を尽くす。
 県会を去った後は、奈良県旅館環境衛生同業組合理事長・吉野食品衛生協会会長・奈良県衛生協会副会長等役職を務めながら、専ら日観連旅館「山水」の経営にあたった。島は裃[かみしも]を着て、袴をつけ、両刀を腰にしたならば、武士としてさぞかし良く似合ったであろう外貌をしており、旧部下に“先生は典型的な十津川郷士と言える人であった”と評された如く、古武士然たる気骨又風格の持ち主であった。
 職務は忠実厳格の反面、内面は心優しく、他人と良く交わり、子供から見ればお人好し的要素を多分に持ち合わせていたといい、校長時代にはよく職員と野球に興ずる一面もあったという。昭和39年(1964)12月13日自宅にて急逝、至誠一貫の生涯を閉じた。享年60歳であった。
 

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