十津川探検 〜十津川人物史〜
後木 喜三郎
後木 喜三郎 明治11年(1878)4月15日那知合、中亀太郎の養弟として出生、後木和三郎方へ入り婿となり後木姓となる。
 明治17年(1884)那知合小学校に入学するが、明治22年(1889)の大水害により一家が北海道へ移住したため、新十津川小学校へ転校する。しかし家事都合により卒業することなく中退、専ら農業に従事する。
 当時移住者には一戸5町歩(5ヘクタール)あたりの土地が賦与されたが、喜三郎は一家不調の為、土地が与えられず、止む無く父母と共に他人の土地を借りて生活、晩年よく家人に“私は実に新十津川の小作人第1号であった”と述懐していたという。文字通り赤貧洗うが如き窮状の中で後木家の養子となり、一念発起、農業で身を立てることを決意したという。
 貧苦の中でも常に向上心を忘れず物事に処し、何事にもくじけぬ堅固な信念と実行力は、広く村民の信頼を得、新十津川農業会長・村会議員・名誉村長・産業組合長・農業協同組合長等村の枢要な役職に選ばれた。とりわけ昭和10年(1935)前後、農業会長時代「新十津川産米」の声価を高めるべく努力を傾注し成果を挙げた。昭和26年(1951)より28年(1953)にかけては農業協同組合長として経営不振に陥っていた組合の赤字克服、再建に力を尽くし経営手腕を発揮、夫れ夫れ成果を挙げた。
 喜三郎は幼少のころより読書を好み、学歴は無くとも学力優れ、関東郷友会報に論文を掲載し所信を表明する等(例“新十津川の金融と産業”)文章表現力にも秀でていた。晩年は筆を持つことを苦にすることなく、友人・知己に文章や手紙を書き送り、今でも“後木のじいさんからの手紙だ”と大事に所蔵している人がいるという。日ごろ、移住時に受けた官民の御恩を忘れてはならぬといい、無駄を省き・時間励行・冠婚葬祭の簡素化等を唱導し自らも実行した。
 昭和43年(1968)4月、長年に渡る産業振興等に関わる功績により、勲五等瑞宝章が贈られた。北海道に新天地を求め、創業のあらゆる苦難に耐え、今日の新十津川の礎を築いた喜三郎は名誉町民第1号に推戴された。しかし、叙勲・名誉町民推戴に際し喜三郎は“俺よりもっと功績のあった人が沢山いるのだから”と固辞しつづけたという。
 昭和47年(1972)8月2日、温厚な中にも剛毅、信念に生きた94歳の生涯を閉じたが、町民挙げて偉大なる開拓者の死を悼み、葬るに町葬の礼をもってした。平成12年(2000)「俺の一生記」が孫達の手によって出版された。
 

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