十津川探検 〜十津川人物史〜
中垣 英三郎
 明治20年(1887)、中垣行完の三男として込之上に生まれる。
 幼少のころより知能衆に優れ、成績抜群であった。
 小学校卒業後は郡山中学校(現郡山高校)、旧制第四高等学校(現金沢大学)と難関を突破し、遂に京都帝国大学法科に進んだ。
 大正7年(1918)3月、同校を卒業する。卒業後一時郷里十津川中学文武舘(現十津川高校)で教鞭を執ったこともあったが、やがて志を外地に求め当時日本の領土であった朝鮮に渡り、北朝鮮商事株式会社に入社した。
 やがてその力量を認められ、専務取締役に抜擢され、会社経営に参加する。商事会社に勤務すること暫くして、法曹界への夢捨て難く帰国、大正14年(1925)大阪において、独立して弁護士を開業する。
 開業後中垣は、その性極めて穏健にして正義心強く、依頼者に対して親切心・同情心をもって接したので、優れた人格者として名弁護士の名声を博した。
 しかし“好事魔多し”、弁護士として順風満帆経験豊富前途正に洋々と見えた彼の前に、“病”という人間として避けがたい一大障害が立ちはだかった。
 昭和13年(1938)10月16日、弁護士として、又1個の人間として円熟味を加え、飛躍を期待されながら大阪住吉にて生涯を終えた。
 前途尚幾春秋に富む51歳であった。
 死期が迫るや、我が身の短き天命を嘆きつつも、且つ大悟して死の時刻を予言して、眠るが如く瞑目した。
 人皆、その早世を惜しんだという。
 因に中垣の曾祖父正五位丸田藤左衛門は幕末十津川郷士のリーダーであり、従六位丸田重理は祖父、父中垣行完は第5代十津川村長であった。中垣の兄高瀬敬蔵は、朝鮮において木材業を営み、巨万の富みを築いたが第2次世界大戦敗戦後、無一物となったという波瀾に満ちた生涯を送った異色の人物であった。元三菱造船所長丸田秀實は伯父、兄弟揃って、法学博士となった乾政彦・東季彦は従兄弟である。一族には他に元大和銀行頭取として名を馳せた銀行界の巨頭、寺尾威夫等優れた人物が多い。
 

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