十津川探検 〜十津川人物史〜
大前 憲三郎
大前 憲三郎 明治26年(1893)11月、湯之原大前憲保の三男として生まれる。
 湯之原尋常小学校を卒え、明治45年(1912)十津川中学文武館(現十津川高校)に学び、卒業後伏見工兵隊に士官候補生として入隊。
 大正2年(1913)陸軍士官学校入校、大正4年(1915)同校卒業、同時に少尉任官。大正5年(1916)砲工学校に入り大正7年(1918)卒業、大正8年(1919)中尉任官、同年東京帝大理学部入学、大正11年(1922)卒業。
 以後築城本部員・砲工学校教官・技術本部員・関東軍司令部付・陸地測量部三角科長・独立工兵第25連隊長・西部軍兵器部長・陸地測量部長等歴任。
 昭和20年(1945)4月、栄誉ある技術将校の最高位である陸軍中将に昇進した。惜しむらくは同年8月15日、日本はアメリカに無条件降伏するという悲惨な敗戦の憂き目に遇い、無敵を誇った帝国陸軍は解体され、遂に到達した頂点に立ち、過去の集大成である優れた知識・経験等生かす機会の失われたことである。
 その年9月、戦後陸地測量部は地理調査所となり、戦後処理の為所長に就任した。12月追放令により公職追放となった。
 昭和27年(1952)4月、追放解除となり復興日本の再建にそのもてる力が大いに期待されたのもつかの間、同月23日病没した。59歳であった。
 この経歴からも判る通り、生来頭脳明敏、衆に優れた軍人であったことが知られるが、その陰に無類の努力家であったエピソードが、当時の文武館卒業生によって語られている。文武館在学中士官学校受験の為、英語・数学・国語・漢文の難問を自ら作り、解答し、補足を加えたもので大判の洋罫紙何百ページにも及んだという。
 この一事からも察せられる通り、当時の中学生の域を脱した勉学の徒であったことが知れる。終生を天性に努力の二字を加え、将星への道を歩んだ敬服すべき人物であった。
 又性磊落[らいらく]、情誼[じょうぎ]に厚く、常に本屋のない故郷十津川の後輩の事に思いを寄せ、折に触れ母校文武館に図書を贈り後進を励ましていたという。
 

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