十津川探検 〜十津川人物史〜
沼田 竜
沼田竜墓 文政10年(1827)9月15日、字宮原村に生まれる。
 京蔵又は恭三、次いで民部と称し、後竜と改める。資性朴直剛毅、容貌魁偉[かいい]であったという。
 嘉永6年(1853)6月米艦浦賀に来航、ペリーが和親通商条約を迫った為、幕府はその対策になすすべ無くそのため世情騒然となった。
 この時竜は、郷の有志と共に決然起って国事に奔走せんことを謀る。
 安政5年(1858)正月、上平主税・深瀬繁理等と京都に上り、諸国の勤王の志士と交わる。安政6年(1859)4月、新宮湊口銀問題について、上平主税・佐古源左衛門外数名と共に材木方総代となり五條代官へ請願する。
 文久3年(1863)8月、十津川郷は京都御所警衛のため上京、竜もこれに加わる。同時期天誅組の変起こり、十津川郷士の多くはこれに加勢した。
 然しながら8月18日の政変により情勢一変、天皇の大和行幸は中止、天誅組は逆賊となった。この為十津川の去就について深く憂慮した竜は、事の到底成らざるを知り、急遽帰郷密に善後策を講じて帰京する。
 やがて、十津川は天誅組から離れ、順逆を誤ることがなかった。
 その後京都にあって、京邸の執事・御親兵人選方・軍事監司・郷中人数監察を命じられる。
 慶応3年(1867)洋式調練等をめぐり、郷中で賛成反対の意見の衝突があり大紛擾となった。竜は当初より洋式調練に賛成であり、洋式練兵の断行に努めた。伏見練兵場において洋式訓練を受けた成果は直ちに現れ、戊辰の役に十津川郷士は御親兵として北越の野に武勲を輝かせた。この事は竜等の力によること大である。
 明治2年(1869)春、大阪府治川使出仕、次いで治川使廃止に伴い、堺県に出仕、権大属(明治新政府の職階制13階級中9番目)に任ぜられた。
 明治3年(1870)12月、積年王事勤労につき金200両を賜う。
 明治12年(1879)1月、一意王事に専心した52歳の生涯を閉じた。
 死の数日前、二等属より一等警部に昇進した。
 明治31年(1898)7月4日、従五位が贈られた。
 

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