十津川探検 〜十津川人物史〜
深瀬 仲磨
 天保12年(1841)川津野崎家に生まれ、後深瀬姓となる。
 資性沈着、謙譲にして能く人と交わる。幼少より読書に親しみ、医術を修め紀州新宮にて医院を開業、優れた治療により大いに繁盛する。
 仲磨は早くから勤皇の志を抱いていたが、幕末世情騒然となるや、天下の情勢を察知、文久3年(1863)断然医院を閉ざし、郷土十津川の同志と共に京に上る。爾来薩長土肥等諸国の志士と交わり、一意勤皇運動に挺身する。元治元年(1864)3月、新宮湊口銀撤廃運動を吉田正義・田中主馬蔵等と起こし、紀州の吉本伍助と京において会見、交渉を重ねた。更に3名総代となり薩摩藩に周旋を依頼し、次いで議奏職に請願した。
 慶応元年(1865)8月、郷友田中主馬蔵と密に公卿諸藩の間を往来し、薩長2藩の提携を策したという嫌疑で京都西町奉行所の獄につながれる。翌2年嫌疑晴れ許されて京邸に帰る。
 明治元年(1868)5月、郷中総代となり当時十津川郷が最も苦心していた御守衛の経費支弁について、軍務官品川弥二郎を訪ね協議し救助方を請う。(当時の御守衛向きの負債は1万円以上であったが、後恩賜5,000石によって決済される)9月大阪府判事試補、明治2年(1869)7月大阪府少参事、明治3年(1870)11月舎人助となる。同年12月積年王事勤労につき、終身8人扶持が下賜された。明治4年(1871)3月、退職。明治7年(1874)1月24日、東京麹町にて病没。年わずか33歳、駒込高林寺に葬る。明治34年(1901)特旨をもって正五位が追贈された。
 挿話:仲磨は機知に富み、早くから三条実美公に知られていた。かつて三条公が薩摩の西郷吉之助に密書を届けようとしたが、西郷が容易に人に会わないことを知り、使者の選定に悩んでいた。たまたま仲磨の機知のあることを思いだし、仲磨に密書の使者を依頼した。仲磨は命に従ってその役を引き受け薩摩に下った。仲磨は心中密に如何にすれば西郷に会えるかと思いを巡らし、遂に一計を案じ実行に移した。仲磨はかねてから西郷が祖先崇拝の念の強いことを聞いていたので、このことを思い起こし、西郷家の菩提所を探し、墓地において突然かがり火を焚いた。それを見つけた西郷が何事かと驚いて駆けつけて見ると、仲磨が墓地の前で端然と額づいていた。静に頭を上げた仲磨は、三条公の密書を西郷に渡し役目を果たしたという。
 

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