十津川探検 〜十津川人物史〜
千葉 清宗
千葉 清宗 文政8年(1825)8月8日、永井に生まれる。父は定之助。
 資性剛毅、文武を好み、18歳のとき郷里を出て江戸・京都において修行する。弘化4年(1847)父の死去の後をうけて庄屋となる。
 幕末、全郷の勤王思想を鼓舞するため、丹波亀山の藩士長沢俊平及び郷士達と相計り滝峠に護良親王御詠の碑を建立した。次いで俊平と共に上京梅田雲浜を訪う。雲浜は国の内外情勢を説き、十津川の由緒を論じて大いに激励した。文久3年(1863)4月、丸田藤左衛門・上平主税・深瀬繁理・千葉正中・田中主馬蔵等と共に書を中川宮に奉呈、一郷挙げて王事に尽力したき旨上願した。6月に至り、先祖の遺志を継ぎ忠勤を励むべし、との御沙汰を賜り、清宗等帰郷、人数選定の上8月、郷士170余名御所警衛に従うこととなった。着京間もなく政変起こり、十津川はその対応に大いに苦慮したが、清宗等はその処置に奔走、中沼了三の鷹司殿に対する助言等もあり、引き続き警衛続行となり事なきを得た。一方同時期、天誅組義挙あり、十津川郷士はこれに参加したが、天誅組が賊軍となった為、早々にこれと離れるよう御沙汰があり、清宗は命を奉じて帰郷の途次、紀州兵に捕えられ28日間和歌山に抑留された。程なく紀州の不当な行為が厳責され、謝状を提出、清宗は解放された。事止んで後、再び上京し、郷士を督励し王城警護に従う。上京中、西郷隆盛・大久保一蔵等諸藩の志士と交わる。滞京中、郷士達は軍資金の調達に大いに苦慮した。そのため清宗は吉田正義等と相計り、十津川の木材等を取り扱う物産会社を大阪に創設せんことを計画し、資金の借入等行ない、一部土州屋敷における銃隊の訓練等の費用に充当出来たが、事は順調に運ばなかった。唯高野山義挙に郷兵の携えていったゲベール銃は、この時の購入によるもので、ここに至ってその効用を大いに発揮した。明治元年(1866)高野山義挙の陣中にある時、命により、五條において軍備充当の為、金穀を募るが、このため故なき嫌疑を掛けられ代官所内に拘留される。このまま命を待つときは嫌疑は晴れないと判断、一夜牢を焼き京に上る。このため益々譴責[けんせき]を被り、蟄居[ちっきょ]申し付けられる。
 明治3年(1870)積年王事勤労につき金200両を賜り、明治28年(1895)特旨をもって従六位に叙せらる。
 明治35年(1902)6月28日病の為、東京四谷にて没す。享年77歳。嗣子貞幹大分・長野県知事となる。
 

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