十津川探検 〜十津川人物史〜
千葉 正中
千葉 正中 文政9年(1826)8月6日、父周平の長男として上湯川に生まれる。
 幼年のころより学問を好み、16歳の時、10歳の弟田中主馬蔵と共に、紀州田辺藩の藩儒平松良蔵に漢学を、同藩の柏木兵衛に剣術を学んだ。
 弘化4年(1847)江戸に出、心形刀流第8代伊庭軍兵衛秀業の門に入るが、修行中病になり帰郷、庄屋となる。米艦浦賀に来航、天下騒然となるや、文久2年(1862)2月、上平主税等と京に上り、諸藩の志士と交わり天下の形勢をうかがう。3年(1863)2月深瀬繁理・田中主馬蔵等と郷士総代となり、郷の由緒を申し述ベ、国家非常の時に際会、応分の力を尽くしたいと赤心を披瀝[ひれき]、次いで4月、丸田藤左衛門・深瀬繁理・田中主馬蔵・上平主税・前田正之等と、中川宮に上書した結果、禁裏御守衛の任に従うこととなった。8月、正中等御守衛人数を率いて上京、以後“京詰”と称し十津川は交替で王城警固に当たった。維新5年前のことであり十津川をして「明治維新魁の村」と評される所以となった。以後正中は京都にあって天誅組の変・8月18日の政変等に際し、郷の立場を守る為その対応に奔走事なきを得た。明治元年(1866)2月十津川御親兵人選方を命じられ、同月軍事監司、続いて郷中人数取締となるなど国事に尽くすこと7年余に及んだが病となり、故山に帰った。帰郷後の正中は再び国事に関わることなく林業に専念した。29年(1896)居を京都に移し、翌年(1897)9月25日病没、71歳であった。吉田山神楽岡に葬る。
 大正4年(1915)積年王事勤労につき正五位を贈られた。正中品行厳正、神を敬い、勤倹を旨とし、山林樹木を愛し、愛樹又は樹山と号した。
 植林の余暇には漢書に親しみ、和歌を詠じた。日常“勤皇と殖産は万古不易なり”を信条とした。雑談中といえども、言、朝廷の事に及ぶと襟や膝を正したという。正中には4人の弟があり即ち、直弟田中主馬蔵・田中賢七郎・千葉小助・岡本良橘で兄弟5人揃って勤皇家であった。

  諷詠
   津越野遠望
    “はるばると見渡す山の春景色
       かすみのあなたはてなしの峰”
 

十津川人物史へ 十津川巡りへ