十津川探検 〜十津川人物史〜
乾 丘右衛門
 文政5年(1822)風屋に生まれた。天保14年(1843)、西久左衛門(小森)丸田重理(込之上)等と甲府の杉山弁吉を招いて剣道を学んだ。
 嘉永6年(1853)6月米艦浦賀に来航、通商条約を求めた為天下騒然となった。この時丘右衛門は同郷の上平主税・丸田藤左衛門・野崎主計等と共に起って国事に奔走せんことを謀る。同年9月上平主税等を総代として、十津川郷の由緒を申し述べ、応分の奉公を尽くしたき旨、支配庁へ建白した。安政元年(1854)正月京へ上り、梅田雲浜[うんぴん]に持論を聞き、感奮して帰郷した。同月亀山藩士長沢俊平・熊本藩士松田重助来郷、国事を語る。この後丘右衛門は郷友に勤王を説くに至ったが、これは明治維新における十津川勤皇運動の第一歩であった。同年9月ロシアの軍艦が大阪湾に入港したが、丘右衛門は上平主税と計り、梅田雲浜を盟主とし撃ち払いを図った。この時雲浜の詠んだ詩が不朽の愛国詩となった。即ち、「妻は病床に臥し 児は飢えに泣く 身を挺して直ちに戎夷に当たらんと欲す 今朝の死別と 生別と 唯皇天后土の知る有り」である。かくして雲浜を擁した十津川隊は大阪に乗り込んだが、ロシアの船は既に港外に去った後で、この挙は実現には至らなかった。その後丘右衛門は雲浜始め五條の志士森田節斎・乾十郎・下辻又七等と気脈を通じ、国事について大いに談ずるところがあった。又長州藩の京都留守居役宍戸九郎兵衛と往来して、十津川郷の振興策として長州との物産交易を画策した。
 又、丘右衛門は安政の始め、長沢俊平・上平主税等と相計り、十津川郷の勤皇精神を鼓舞するため、元弘の昔十津川に潜匿された護良親王御詠を石に刻み、千載不朽に伝えんと計画したが、その実現を見ずして病にかかり安政4年(1857)没した。享年わずか36歳。丘右衛門、資性豪放気宇闊達、家富裕にして屈託なく、諸国の志士浪人来り訪れる者あれば快くこれを迎え、幾日となく滞留せしめた。早くから五條代官に知られ、常に代官邸に出入りし十津川方面の所用を足していた。当時十津川郷内屈指の大人物と言われ、毎年行われる年1回の村の代表による寄り合いには常にその首席をしめた。
 この様に優れた人物であった為、幕末、郷にとって極めて重要なこの時期、その早世は惜しみてもあまりあるものがあった。
 嗣子楯雄剛毅明敏、御親兵隊長となる。やがて司法省に入り前途を嘱望されたがわずか31歳で病没。
 

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