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嘉永元年(1848)8月12日、風屋に生まれた。
文久3年(1863)年歯[ねんし]わずか16歳、京師に上り、京都御所の警衛にあたるなど年少ながら勤皇の気概にあふれていた。禁裏守衛の任終わり、郷里に帰り文武館(現十津川高校)に学ぶ。慶応3年(1867)4月、殿井官平・前倉武一等と選ばれて江戸薩摩藩邸において平元良蔵に就き、洋式兵法を修得する。
明治元年(1868)伏見練兵場に入り嚮導官を命じられる。同年6月、戊辰の役には越後口に出兵、右股銃創を負う。明治2年(1869)6月、戦功により高40石を賜い、陸軍準大尉に任ぜられる。明治5年(1872)9月、陸軍歩兵大尉昇進。明治7年(1874)2月佐賀の乱、4月台湾征討の軍に従う。明治9年(1876)戸山学校に学ぶ。明治10年(1877)西南の役に従い、左股に銃創を負うも勇戦奮闘、大寺安純・佐藤正と共に本邦3大尉として有名を馳せた。
爾来累進を重ね歩兵大佐、第8連隊長(大阪)となる。28年(1895)日清戦争には鳳凰城の守備に任じ、29年(1896)台湾征討に従い、戦功により功四級金鵄勲章を賜う。明治32年(1899)陸軍少将に任ぜられた。明治37年(1904)日露開戦となるや、11月歩兵第32旅団長として旅順を攻撃、東鶏冠山を奪取、後奉天戦に参加、馬群鄲の一塁石山占領に当たり頭部に敵弾を受け、野戦病院に送られた。負傷後陸軍中将に任ぜられたが、明治38年(1905)2月26日、逝去した。57歳であった。金鵄勲章を授けられ、正四位勲二等功三級に叙せられた。葬儀には勅使が遣わされ金帛を賜った。嗣子勇は男爵に列せられた。
隆禮は度量大にして極めて剛胆、戦場にあっては常に部下と苦楽を共にしていた。日ごろは書画を愛し、特に好んで馬の絵を描いていたという。又若くして津藩の清水幾太郎に心形刀流を学び、剣に秀でていた。隆禮の剣道逸話談に次のようなものがある。
かつて明治天皇の前で所謂御前試合が行われ出場したが、相手は某という剣道の達人であった。それも誰も彼も辞退した上でののっぴきならぬ場であって、勿論相手の方が強い。御前試合ということで相手の方は威儀を正して式礼をしておる。隆禮はこの時、いきなり下げている頭を思いっきりなぐりつけた。さあ、後は無作法だ、卑怯だと大問題となった。しかし隆禮は「ナーニわが郷の作法では試合に特別の礼法はいらない。場に上ぼって目礼すればもう戦場だ」と平然たるものであった。これで事は済んだという。
墓碑は五條天神山にある。 |
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