十津川探検 〜十津川人物史〜
乾 政彦
乾 政彦 明治9年(1876)11月、平谷中垣精悟の次男として生まれる。
 13歳のころ同村の乾正二郎の養子となる。幼少より頭脳明敏衆に秀で、郷校文武館(現十津川高校)に入学するが間もなく明治21年(1888)志を抱いて東都に上り、叔父丸田秀實(込之上出身 長崎三菱造船所長)方に寄寓し、日本中学から一高東大法科に進み、卒業後、東京高商・法政大学の講師となる。明治34年(1901)秋、文部省より民法学研究の為ドイツに留学を命じられ、3年間ボン大学で研鑽、帰国後直ちに東京高商教授に任ぜられ、爾来その職にあること11年余、その間東京大学・陸軍経理学校・慶応・明治各大学の講師として民法学を講じた。大正3年(1914)法学博士となった。翌年(1915)大学の職を辞し弁護士となり晩年に及んだ。しかしこの間、東京弁護士会会長に選ばれること4回、昭和21年(1946)には貴族院議員に勅撰せられた。議員となったこの年病を得たが、無理をおして登院、昭和23年(1948)に至り病重り鎌倉山の家にて療養に努めたが、昭和26年(1951)4月ついに75歳の高潔な生涯を閉じた。
 博士は一高在学中から和歌に親しみ、弟の東季彦法学樽士と共に佐佐木信綱先生に師事し、多くの歌を残した。
 昭和27年(1952)十津川郷友会により「乾政彦歌集」が出版された。
 序文は佐佐木信綱先生である。
 博士は常に郷里十津川に思いを致し、特に郷校文武館にはその維持に強い関心を寄せ、大正10年(1921)火災による学校の存廃論が起こった際には、関東郷友会を代表して十津川に帰り、村を回り文武館の歴史と存在意義を説き、存続すべきことを訴えた。今日十津川高校の存在する所以は、前身の文武館存続に努力を傾けられた博士の力の大であったことを忘れてはなるまい。

 乾政彦歌集より二首
  “ふるさとの十津川の瀬に若鮎の
     さばしる春ぞ帰りなんいざ”
  “八十路あまり四つの翁がそのかみの
     腕白者の我を見て泣く”
 

十津川人物史へ 十津川巡りへ