十津川探検 〜十津川人物史〜
吉田 正義
吉田 正義 天保8年(1837)10月20日、小原に生まれる。父は藤吉である。
 正義は通称源五郎又は俊男という。生来才能優れ、学問を好み識見豊かであった。
 安政4年(1857)8月丹波亀山藩士長沢俊平及び郷の有志と相計り、郷民の勤皇思想鼓舞のため、滝峠に護良親王御詠の碑を建立した。文久3年(1863)3月野崎主計等同志と上京、勤皇運動に身を投じ、諸藩の志士と接触、とりわけ西郷吉之助・伊東俊輔・中岡慎太郎等と相交わる。御所警衛に当たっては京邸にあって、郷中の事務処理を行なった。同年12月13日中沼了三の門に入る。元治元年(1864)3月以降、新宮湊口銀撤廃問題につき田中主馬蔵等と共に、しばしば紀藩と交渉を繰り返す。5月勅命による文武館(現十津川高校の前身)開館に当たっては、上平主税と共に師儒官中沼了三を案内し、折立松雲寺における式に参列する。慶応3年(1867)陸援隊長中岡慎太郎の策を用いて正義は、土州邸を十津川郷が借り入れ、郷中の壮士50名を選抜して調練を行った。この50名が高野山義挙に参加した。
 明治2年(1869)郷中に2派を生じ、互いに相争う紛争事態が起こった。事の起こりは維新直後、京都御所警衛の郷士に、伏見練兵場で洋式訓練に従うようにと命令があった。この命令に従う者、従わない者の2派が生じたことが発端である。正義は伏見練兵場での操練に賛成であり、これを推進した。この為正義は反対派から西洋かぶれ、国体を誤るものだと指弾された。しかし、戊辰の役に伏見練兵場より出兵、十津川御親兵の名声を天下に知らしめたのは、正義の先見の明と英断ではなかったか。
 3年(1870)10月軍監に登庸されたのを始めとし、官界において昇進を重ね、兵庫区裁判所長・大阪始審裁判所奈良支庁長・隠岐国西郷治安裁判所判事等歴任、22年(1889)遭難死した宇智・吉野郡長玉置高良の後をうけ郡長となる。27年(1894)初代吉野郡長(宇智・吉野郡分離)となり、29年(1896)退官、41年(1908)3月従五位に叙せられた。
 同月20日五條町にて病没、享年71歳、小原に帰葬する。
 正義愛郷心に富み、親に仕えて至孝、文を能くし、又芳陽と号して書に秀でていた。玉置山にあるかつての同志、上平主税の碑文は正義の書であり、重里の深瀬繁理の碑文及び書は正義の手による。
 

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