十津川探検 〜十津川人物史〜
佐古 高英・志津
 
頌徳碑(旧山崎小学校入口)
●頌徳碑
 (旧山崎小学校入口)
 佐古高英は明治13年(1880)6月28日、佐古高郷の孫として山手に生まれる。
 高郷は幕末明治維新時、国事に奔走した十津川郷士の1人であった。
 高英は幼名泰太、後高英と称した。長じて大阪府立高等医学校入学、明治40年(1907)10月卒業する。卒業後大阪市内医院等に勤務し、後下市町で開業。大正元年(1912)9月、故郷十津川に帰り山崎にて佐古医院を開業する。大正11年(1922)7月村会議員に当選、1期就任する。
 志津夫人は明治20年(1887)1月1日、賀名生村(現西吉野村)堀重信の長女として生まれる。堀家は賀名生村の名家で南北朝時代行宮[あんぐう]となり、今も門に「皇居」の扁額が掲げられている。志津の父重信は十津川郷風屋、沖垣家の出身であり、賀名生村長を務め、志津の兄弟丈夫は陸軍中将となった。志津は大阪府立清水谷女学校裁縫部卒業、高英と結婚する。
 高英は人格高潔、財には無欲恬淡[てんたん]、患者に対しては貧富の別なく一視同仁、唯々里人の医療・保健に力を尽くした。
 自己を犠牲にして30有余年間、不便な僻遠の地において、医療のみならず社会の為に労を惜しまず献身、わずかに盆栽・草花・骨董等に慰めを見いだして診療に明け暮れた。
 昭和17年(1942)9月2日、五條町において“医は仁術なり”を身をもって実践した62歳の生涯を終えた。
 志津夫人は結婚以来貞淑にして、言動誠に優雅、夫の医師としての職分を理解し、患者や里人に優しく、よく家を守り夫を授けた。
 昭和24年(1949)11月20日、山崎谷の上の寓居で、奇しくも夫と同じ62歳で世を去った。
 年を経て夫妻への慕情禁じ難く、往時を追想し、報恩の念つのり、永くその高徳を伝えるため、二村区及び有志によって夫妻の頌徳碑が建てられた。昭和44年(1969)のことである。
 碑は大字山崎、旧山崎小学校の入口に建てられている。
(注)村内には数多くの碑が建立されているが、夫妻共にその名が刻まれた碑は寡聞[かぶん]にしていまだ聞かず。
 

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