十津川探検 〜十津川人物史〜
中井 庄五郎
 
生誕地碑
●生誕地碑
 弘化4年(1847)4月23日、野尻に生まれた。
 記録によれば、生まれた時全身黒い毛で覆われた、極めて異相の子であった。長ずるにおよび長身、毛深く「ひげ男」と呼ばれていたという。何処でどの様な修行をしたのか一切不明だが、剣術にすぐれ、特に居合の達人であったという。彼の闘いぶりを当時の人は、「彼の闘うや猛虎の如く、又隼の如く俊敏、機先を制して剣光一閃忽ち敵を倒す」と許した。文久3年(1863)、同郷の先輩上平主税に連れられ、この年から始められた十津川郷士による御所警衛の為上京、王城警固に従う。在京中多くの志士と交わり、かって長州藩士品川弥二郎の依頼で、長州藩の裏切り者岡伊助を同郷の前岡力雄と付けねらい、遂にこれを斬り懐中の密書を奪って品川に渡した。この功により長州候より刀二振りが贈られた。土佐の坂本龍馬とは武士の魂である刀を贈られる程の、親しい関係にあったという。慶応3年(1867)11月15日、京都近江屋の2階において、坂本龍馬・中岡慎太郎の両名が暗殺された。刺客が近江屋を襲った時、取り次ぎの藤吉に「十津川の郷士で御座る、才谷先生(龍馬の変名)にお取り次ぎ願いたい。」と名刺を手渡し油断させ、2階へ駆け上がり2人を斬殺したという。親交のあった龍馬暗殺の報を聞いた庄五郎は、十津川郷士の名を騙られたということもあって、必死に下手人を探索し、新撰組の土方歳三等(当時坂本・中岡の暗殺は新撰組の仕業と専らの噂であった。)が天満屋に居ることを突き止め12月7日夜、陸奥宗光等同志16名と共に襲撃を敢行した。
中井庄五郎殉難之地 真っ先駆けて斬り込んだ庄五郎は、戦闘中不覚にも刀が鍔元1尺ばかりのところで折れ、それでもひるまず闘っていたが、遂に力尽き倒れた。双方40数名が入り乱れての乱闘で闘死したのは庄五郎1人であった。今から考えると仇と狙った相手は的外れであったとは言え、情報不足の当時の実情からすれば致し方のなかったことといわねばなるまい。かくして庄五郎は龍馬の為に若き20歳の命を京洛の巷に散らして果てた。庄五郎死して2日後、王政復古の大号令は下された。
 京都霊山には多くの維新の志士の碑と共に庄五郎の碑が建てられ、天満屋跡には「中井庄五郎殉難之地」と刻まれた碑がある。又生地野尻には「生誕之地碑」がある。大正4年(1915)特旨をもって正五位が贈られた。因に龍馬暗殺の真犯人や、その黒幕については未だに論議の的になっている。
野尻の里 中井庄五郎の佩刀
●野尻の里 ●中井庄五郎の佩刀
 

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