十津川探検 〜十津川人物史〜
玉置 義正
 
表徳碑(折立中入口)
●表徳碑(折立中入口)
 天保3年(1832)8月15日、玉置歌之助の長男として折立村山崎に生まれた。
 3歳のとき足を病み、足が不自由となり、次いで翌年4歳にして父の病死にあう。そのため母は幼い義正を連れて、山手谷の母の実家に帰った。やがて母が再婚したため、叔父源助に養育される。7歳から縄ない13歳から筵織りをし、夜は疲れた身体に鞭打ち、睡魔と闘いながら、生来の好学心もさることながら向学心に燃え一心に勉学に励んだ。19歳の春山手谷より実家の山崎に帰ったが、義正は早くからこの地に学問を教える塾の無いことを憂い、20歳に達した嘉永5年(1852)より近隣の弟子を集め自宅に家塾を開いた。
 この頃日本には浦賀に米艦が来航、幕府に対し通商条約を迫り、物情騒然たる時期であった。この様な世情を反映してか、学問の重要性に目覚めたむら人によって塾生は年々増えていった。嘉永年間より20余年間に教育した塾生は、込之上・平谷・山手谷・樫原・折立方面から集まった子弟300余人に達した。給料としては特に徴収せず、盆・正月等年4期、父兄より思い思いの祝儀により教授をした。義正は又若年より老年に至るまで、地方の人々の争いごとや、家内の不和等何事によらず立ち入り、その解決の為に不眠不休、昼夜を問わず、寝食を忘れて解決に努力したことは、数え上げるときりのない程であった。
 義正は齢45歳のとき、身体が不自由なため自ら塾を閉じた。明治32年(1899)、義正67歳の時、寺尾義一・寺尾定松・中村惚次良、外数人世請人となり子弟相寄り、有志者の寄付金を募り、顕彰せんことを計り、師恩に報いる表徳碑を建立した。
 幕末の郷内では、時勢に目覚め学問の必要性・重要性を感じた郷人等は、寺子屋において住職から読書・習字・算術を学び、あるいは郷外より学問あるいは剣術の師を招き、又は郷外に師を求めて修行した。

 この時期、自ら私塾を創り、子弟を集め教育した義正の行為は誠に意義深いものと言わねばなるまい。
 義正は大正5年(1916)7月14日、無欲向学の84歳の生涯を閉じた。
 表徳碑は元字山崎の道路端にあったが、国道改修工事の為、大字折立、折立中学校校門入口に移転した。
 

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