十津川探検 〜十津川人物史〜
東 武
東 武 明治2年(1869)4月東義次の長男として永井に生まれる。
 郷校文武館より東京法学院(中央大学の前身)に学んだ。法学院在学中の明治22年(1889)8月、郷里十津川郷は未曽有の大水害に見舞われ、死者168人・家屋の流失全半壊凡そ600戸という大災厄を被った。
 この時、東は郷の先輩と共に、「災いを転じて福となさん」と難民救済策として北海道移住を説き、その実現に寝食を忘れて奔走した。
 結果、600戸2,600人という大移住民が渡道、原始林を開拓、新しき村の建設にあたるという大事業が敢行され、今日の新十津川町が誕生することとなった。東は明治23年(1890)法学院卒業、翌年渡道、新十津川村の開拓に従事、明治26年(1893)十津川及び新十津川の移住民100戸団体を組織し、雨竜郡深川村芽生[メム]に入植、現在の深川市の基礎を築いた。深川市には開拓の恩人として「東先生開拓頌徳碑」が建てられている。
 東はこの後、道会議員として政界に、又北海タイムス社を創立して言論界に進出した。明治41年(1908)以来中央政界に身を置き、当選を重ねること10回、政友会に属し予算委員長等各要職を歴任、昭和2年(1927)には農林次官となった。議会においては爆弾的発言が多かったためかニックネームを“バクダン”と呼ばれたという。東の議員在任中特筆すべきことは、明治44年(1911)第27議会において、南北両朝の何れが正統であるかといういわゆる南北正閠論[せいじゅんろん]が起こり、東は南朝正統論を唱え、ついに北朝正統論者を沈黙せしめたことである。
東武墓(永井 堂ノ岡)
●東武墓(永井 堂ノ岡)
 昭和13年(1938)日本新聞協会使節団長として当時の同盟国ドイツ・イタリアを訪問するなど活躍したが、昭和14年(1939)9月3日、衆議院議員・日本新聞連盟理事長・北海タイムス社相談役等在職のまま、70歳にて千葉医大病院にて病没した。
 東は青年時代学生の身にあって郷土の大災害に直面し、この危急を救うべく自らその衝にあたるなど、その生を終わるまで数々の障害を理想をもって乗り越え、進取の気概に満ちた生涯を送った。
 功により従四位勲二等を贈られた。
 遺骨は分骨されて、郷里十津川村永井・東京多摩墓地・北海道深川市に葬られている。実子なきため乾政彦(日大学長・法博)を養子とした。
(注)正閠=正は正統、閠は不正の意味。
 

十津川人物史へ 十津川巡りへ