十津川探検 〜十津川人物史〜
玉堀 為之進
 
辞世
●辞世
玉堀為之進墓(林)
●玉堀為之進墓(林)
本殿前の灯籠
●本殿前の灯籠
 文化7年(1810)林に生まれる。幕末文久3年(1863)8月、天誅組の変起こり、十津川はこの挙兵に参加を求められ、即刻これに応じた。
 しかしこの時為之進は、河内の上田主殿と共に、天誅組主将中山忠光に会い半日議論したが、遂に意見合わず、反逆者の名をもって天ノ川本陣、鶴屋治兵衛邸で先陣の血祭りとして斬殺された。
 為之進は当時、林村の庄屋であり、十津川上組の物事の判断に沈着冷静なリーダーであった。一方主殿は藤田東湖の門弟であり、熱烈な勤皇の志士であった。今河内長野市神岡の上田家墓所には「明治維新勤王の志士 上田主殿墓所」の碑が建つ。後に千葉貞幹(永井出身 大分県知事、長野県知事となり在職中病没)から為之進の息、利喜男にあてた書簡には、為之進の事を「温厚な人柄で、言語さわやか、背高く中肉、上品な人で筆跡も見事であり、上組の牛耳を執り、第一級の人物であったと聞いている。」と書かれている。孫の玉堀貞夫は手記の中で「祖父は勅命を遵法せざるにもあらず、又、倒幕の義挙に参加せざるにもあらず、ただ事の真偽を確かめんとしたるのみ。」と述べている。当時、天誅組が十津川に援兵を求めたとき、既に京都の政変により天誅組は賊とされ、孤立無援となっていたことを思うとき、状況を確かめてという慎重論は、当を得たものではなかったか、後に勅命に背くものとして、十津川が天誅組から離脱せざるを得ない立場に追い込まれた事情等考え合わせるならばこの思い尚更である。為之進・主殿の斬首されたのは文久3年8月24日のことである。上平主税の日誌の中に辞世の句が残されていた。
 辞世
  “国の為仇なす心なきものを
     仇となりしは恨みなりける”
 上野地の国王神社本殿前には、為之進寄進の一対の石灯籠が今も残っており、境内にはこの辞世の碑が建てられている。墓碑は大字林にあり碑表には「忍剣義懐居士」と戒名が刻まれている。天誅組の変により、十津川は幾人かのかけがえのない人材を失ったが、為之進もまたその1人である。
 
 

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