十津川探検 〜十津川人物史〜
中井 亀治郎
 慶応2年(1866)3月22日、父多蔵母里よの三男として内原に生まれる。
 明治15年(1882)文武館(現十津川高校)に学び、当時文武館生徒・郷青年指導の為、招聘[しょうへい]された鏡新明智流の達人、元江戸三大道場主の1人であった、桃井春蔵直正及びその高弟黒谷佐六郎に剣術の指導を受け、両3年を出でずしてその奥義を究めたという。19歳の時両師の勧めにより武者修行の旅に出、京阪各地の道場を訪れ、ことごとくこれを降し、又21歳近衛師団に入隊するが、休日には必ず各所の道場を巡り、他流試合を申し込み一度も敗れたことがなかったという。十津川郷・文武館・近郷において剣道指導を行ったのは、剣道修行10年後、即ち25年(1892)以降の事である。
 晩年は文武館長松永信綱先生のたっての要請により、文武館顕彰寮の舎監を務めた。舎生に接する亀治郎は、天下無敵の剣豪の影をひそめ、実に好々爺然としていたと言う。亀治郎は全身針金で出来たような筋肉質で、人に勝って力も強く、剣の得意技は「突き」であったが、門下生の伝えるところにとると、片手で軽く突かれても、道場の壁板まで吹っ飛ばされたという。又極めて身軽く、天井の桟に手を掛けて蜘蛛の様に天井を伝い歩いたとか、崖の中腹に突き出た木に、下駄履きのまま重い石を置いてきたとか、数々の逸話の持ち主であった。この亀治郎の教え子の1人に、戦後、日本のダンス王と呼ばれた玉置真吉がいる。真吉は三重県紀和町の出身で、一時文武館に学び亀治郎に剣を習った。昭和21年(1946)「社交ダンス必携」を出版、37万部を売りつくし、日本各地でフォークダンスの講習を実施、ダンス王の名は全国に鳴り響いた。
 真吉評の中でダンスの基礎が、奇態の剣の達人亀治郎によって培われたとあるが、無骨一辺の剣豪の弟子に、日本一ダンス王の取り合わせは何とも微笑ましく、心和む話ではないか。
 性無欲恬淡[てんたん]、名利にとらわれず、酒を愛し、質実剛健、剣一筋に生きた亀治郎は大正7年(1918)11月18日、病のため52歳の高潔の生涯を閉じた。墓は大字旭にある。
 昭和38年(1963)10月、師を慕う門下生と有志によって、十津川高校前、国道端に「剣豪中井亀治郎先生の碑」が建立された。碑文はかつての門下生、元文武館教諭中垣良彦、書は同じく門下生元近鉄副社長玉置良之助である。
 
中井亀治郎碑(十津川高校前)
中井亀治郎(中央)
●中井亀治郎碑(十津川高校前) ●中井亀治郎(中央)
 

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