十津川探検 〜十津川人物史〜
深瀬 繁理
 文政9年(1826)父幸右衛門の次男として重里に生まれる。
 資性豪胆にして果断であったという。幕末嘉永3年(1850)24歳の時より郷里を出、諸国を巡り、梅田雲浜を始め諸藩の志士と交わり、勤皇運動に活躍した。安政5年(1858)同志数名及び雲浜と長州の志士を訪ね、長州との物産交易に名を借り、相往来して国事を談議することを約して帰る。このことは後一時長州から食塩・ローソク等の輸入があり、物流に名を借りた志士の来郷であった。文久年間、雲浜の門人行方千三郎をはじめ、土州・長州の志士相次いで来郷、繁理の許を訪れた。文久3年(1863)、同志と共に朝延方に十津川郷の由緒書を提出、明治維新時、京都における十津川郷の勤皇活動の端緒を開いた。8月、天誅組挙兵に際しては、川津の野崎主計と共に郷士を率いて各地に転戦した。程なくして京都の8月18日の政変伝わり、十津川は止むなく離脱した。この時、繁理は最後まで天誅組への義理を重んじ、天誅組の脱出を助けるため伴林光平等と共に、風屋より内原前鬼を経て、北山郷に入り、葛川より北山に出た天誅組の本隊のために食料の調達に努め、姉婿福田友之助方に潜伏していたが、藤堂藩兵に探知され9月25日、白川河原(現在池原ダム湖底)にて斬首された。時に年37歳。首級は同志たちの手によって故郷重里に運ばれ、亡き父の墓地に遺骸と共に葬られた。前日の24日、同志野崎主計は自刃し、今また繁理は斬首、十津川はわずか2日の間にかけがえのない人傑を失なったことになる。
深瀬繁理碑(重里郵便局横)
●深瀬繁理碑(重里郵便局横)

  辞世
   “あだし野の 露と消えゆく もののふの
              都に残す 大和魂”
 明治24年(1891)11月正五位を贈られた。繁理の事歴を記した碑は、嗣子守為により明治33年(1900)建碑され、現在重里郵便局横にある。
 文及び書は小原出身、かつての同志宇智吉野郡長吉田正義である。
 傍に教育委員会の手によって建てられた辞世の碑がある。
 

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