十津川探検 〜風俗図絵〜
瀞の筏場回想
  図55.1
図55.2(55) 瀞の筏場回想
 西紀1935年頃は、釜嶋前(この砂地あたりを「オー岩」と呼ぶ。)の砂礫が集積して川原があり、そこで筏作りの床組みが行ひ易かった。ところが、その後どうした水流の作用か、砂礫の流下減少によるか、逐次なくなった。現在(1969年)は砂礫が皆無である。川原のあった事実は、筏組み作業の終わりまで就業した人の家に寫眞がある。
 画面下方斜線は、「アバ」と云ひて流下してくる材木を止めるもので、是は4m材21本で丁度よかったのだ。和歌山県側も三重県側も岩の狭間に繋いである。「アバ」の中程に切り開いてあるのは、大沼方面上流から来る筏の通路で通り過ぎると、また締めておく。
 「アバ」は、まず四分程度のワイヤーを引いて、それに藤かずらの輪で繋いだ材木を添えて力ン(?)で止めてあった。上の方の点線も「アバ」で、是は左方のわだ奥に入って集村に手間取ることを防ぐもの。また流木が終わって組み場に集結するとき、イ点の所を曳いてくるのに便せり。藤蔓の輪は、大抵は三重に重ね廻してある。是は、「タマコ」と云ふ。ロは釜嶋、ハはかめ壺である。

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