十津川探検 〜風俗図絵〜
垣野源吾先生頌徳碑文,似顔絵
  〔恩師垣野源吾先生頌徳碑文〕
 学んで厭はず、人を教へて倦まざる者、実に垣野源吾君となす。君重里の人、天資温厚、幼にして学を好み、もっとも書をよくす。明治15年、郷の文武館に入り尋ねて吉野師範学校に轉じ、17年7月卒業、寺垣内、善城、谷瀬、寺戸、上湯川、小井、高滝各尋常校及び葛川尋常高等校神下分教場訓導を歴任、諄々以て学童を導くを己の任となす。これを以て到る処父兄みな喜び、子弟益々勵む。大正5年11月13日授業中卆として遂にたをる。けだし脳溢血を撥して歿せる也。享年52鳴呼哀れなる哉。大杉墓地に葬る。君職にあること30余年、勵精一日の如し。神下の父兄子弟及び青年等、追慕しておかず、金をよせて碑を建て以て報恩をあらはすと云ふ。・注−碑面は漢文にて書かれている。撰文は大字込之上の人、漢学者岡豊若先生なり。
大正13年11月建碑、祭典。昭和28年4月18日、中森瀞八郎、中信重、榎本光隆及び自分の4人(同級生)の、先生に4ケ年指導を受けたる者主になり、教へ受けたもの全員の醵金により37年忌を□したり。
恩師垣野源吾先生似顔絵〔恩師垣野源吾先生似顔絵〕
 今から48年前、自分が11歳当時の記憶を辿りてのことであり、似顔の難しさ到底描写でき得難いが、少々ちぢれ髪であり、下ぶくれの豊かな顔、細かい歯並み、童顔温厚な顔立ちが心の奥ではありありと浮かんでゐる。自分が5年生になって本校へ去った後、授業中脳溢血で倒れられた。死後、寝棺の御顔を見たとき、安らかに眠ってゐる様であった。

風俗図絵へ