十津川探検 〜十津川巡り〜
梅田雲浜顕彰碑
 
 
顕彰碑
●顕彰碑
 碑は大字川津、旧川津ユースホステルの庭に野崎主計碑と並んである。
 梅田雲浜[うんぴん]通称源次郎は若狭国小浜の出身で維新の代表的な志士である。
 嘉永6年(1853)の米国使節ペリーの浦賀来航に始まる諸外国船の来航と、開国を迫る強圧的な態度は、国論を沸騰させ攘夷[じょうい]運動を高めることとなった。
 雲浜の意見は外国の打ち払いと、京都御所の警備を固めることにあった。そこで目をつけたのが、十津川郷士であった。代々皇室に対して忠勤を励んでおり、質実剛健の気質を鼓舞訓練すれば、危急の場合、朝廷の護衛兵として役立つと考えたわけである。
 安政元年(1854)から、十津川郷士の野崎主計上平主税[かみだいらちから]、深瀬繁理[しげり]らと交わり、その精神面や行動への影響を与えた。
 さて、同年9月、ロシア軍艦が突如大阪湾に現れるや、十津川郷士はこれを打ち払うため雲浜を首師と仰ぎ、大阪表に向かうこととなった。が、その頃、雲浜の家庭は貧苦にあえいでおり、夫人の病は重く、子どもは飢えに泣いていた。しかし、雲浜、国のためには代えられずと、悲痛な胸中を吐露[とろ]する次の詩を賦して出立した。
『妻は病床に臥[ふ]し児[こ]は飢えに叫ぶ 身を挺して直ちに戎夷[じゅうい]に当たらんと欲す 今朝死別と生別と 唯[ただ]皇天后土[こうてんこうど]の知る有り』  《原漢詩》
だが、十津川の一隊が着いた時にはすでにロシア艦は退去した後だった。
 後、「安政の大獄」で処罰される。
 

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